聡明・沈着・勇敢

　怪盗キッドは今夜も首尾よく宝石を盗み出し、警察の包囲網を軽々と掻い潜って、明るい月の下を滑空していた。しかし、まだ気を抜けなかった。
　下見の時に見かけた名探偵の姿をまだ見てないからだ。
　もしかしたら、途中で殺人事件の連絡が入ってそちらに行ってしまったのかもしれない。しかし、泥棒の勘が警鐘を鳴らす。
　一瞬の油断が、仕事の失敗、ひいては怪盗キッドの最期に繋がりかねない。
　特に、あの名探偵工藤新一が相手の時に気を緩めてはならない。その端正な容姿に油断すれば、苛烈なまでのしっぺ返しを喰うのだ。
　だから、本当は名探偵が怪盗キッドの犯行現場に来られないように、予め根回しをしておくべきなのだ。
　彼を遠ざける事こそが、怪盗が最も確実に仕事を成功するための最善の策だ。しかし、それではつまらない。
　あの聡明な瞳が推理に輝く様を見るのが好きだった。
　あらゆる場面で冷静沈着に対処する彼の瞳に宿る強い意志の光は、どんな宝石よりも美しかった。

「遅かったじゃねえか」

　予定通りにキッドが舞い降りた高層ビルの屋上で、彼は当然のように立っていた。
　探偵はキッドの逃走経路を予想し、待ち伏せていたのだろう。
　涼しい顔に不敵な笑みを貼り付けて、まるで彼の背後に広がる明滅する夜の街を従えるかのように立っていた。
　賞賛の口笛を吹いてしまいそうに、鮮烈な光景だった。
　キッドの感想など知らぬ気に、探偵は口を開いた。

「返せよ、宝石」
「オレを捕まえねえのか？」
「それは依頼されてない」
「つれないな」

　ここへ来たのはあくまでも依頼のためだと冷静な探偵に、キッドは肩を竦めて宝石を月に翳した。
　月光を弾く宝石は美しかったが、ただそれだけだった。自分が探し求めるものではない。

「気は済んだか？　なら返せよ」

　探偵は勿論、キッドの事情など知らない。宝石を月に翳すのが目的だと思っているのかもしれない。だから、それが終わると事務的に返還を要求する。彼にとって一番重要なのは、請け負った依頼の遂行だ。
　聡明な瞳は飽くまでも冷静にキッドを映している。悪戯心が頭を持ち上げた。

「返して欲しければ、此処まで取りにこいよ」

　キッドは探偵を揶揄するように、指先で宝石を回してみせた。
　探偵は負けず嫌いだ。それで大丈夫なのかと余計な心配をしたくなるぐらい、キッドの挑発に簡単に乗ってくる。
　形の良い眉を顰め、舌打ちをして、それでも、探偵は迷いなく怪盗に歩み寄ってくる。

　例えば、その瞳を激しい熱に堕としたらどうなるのだろうか？
　淫らな熱に溺れた時、瞳はどんな輝きを見せるのだろうか？

「ほら、来てやったぞ。返せ」

　伸ばした指が届く前に、キッドは自分の手の中の宝石を一瞬で消した。

「おい」

　抗議を聞き流し、キッドは探偵の腕を取った。視界の隅で、夜の街が瞬いている。

「犯罪者の所へのこのこ一人でやってくる名探偵の勇敢さに、敬意を表して」

　力任せに引き寄せて、キッドは自分の唇を探偵のそれに重ねた。
　互いに瞳を閉じもしなかった。
　突然のキッドの行動に、敢えてキスを受け止めて、探偵は少しも揺るがなかった。
　探偵の瞳は藍玉に似た誰も知らない遠い海のように深く、生物のいない大地に広がる蒼穹のように静かだった。
　キッドの口づけを受けながら、聡明な双眸が冷ややかに笑った。

「！」

　キッドが一歩下がって、ゆっくりと探偵から離れた。口腔内に広がる錆びた味。口の端に滲んだ血を白い手袋に包まれた指先で拭った。
　目の前の探偵の唇には赤い血が付いている。彼の血ではない。彼に唇を咬まれた怪盗の血だ。探偵はキッドの様子に楽しげに瞳を歪め、唇の血を舐め取ると、コンクリートに唾と共に吐き出した。

「探偵に手を出す命知らずな怪盗の勇敢さに、敬意を表してやるよ」
「良家のご子息とは思えない品の良さだな、名探偵」
「まさか通り名だけでなく、キスまで“お子様”とは思わなかったぜ、怪盗キッド？」

　鼻で笑う探偵の挑発を、キッドは肩を竦めて受け流す。

「大人のキスがお望みなら、それはまた日を改めて。名探偵の自宅ででも個人レッスンしてやるぜ」
「警察の監獄でなら、考えてやるよ」

　キッドは探偵と視線を戦わせたまま、屋上の端へ移動する。フェンスをひらりと飛び越える。

「どうやら今宵は名探偵を満足させられなかったようなので、おとなしく退散しよう」
「おい、待てよ。宝石を返せ」
「子供のキスのお詫びは、そこに」
「え？」

　キッドの指先に示されて、探偵は自分の上着のポケットに納まっている宝石に気づいた。

「では、また、名探偵。次はちゃんと満足させてやるよ」
　
　傷ついた唇に笑みを刻んで、白いスーツの足が軽々と屋上を蹴った。白いマントが翻り、しなやかな体躯が夜の街へ落ちていく。駆け寄ってきた探偵が屋上の端に立ち、自分を見つめている姿が視界の隅に映った。
　怪盗は落下の浮遊感を少しの間堪能してからグライダーを開き、夜空と不夜城の街の間を滑空する。
　奪った唇の甘さと広がる血の苦さを名残惜しく味わいながら。



　夜の闇に消えていった白い影を見送った探偵は、深く息を吐いた。

「ったく、つまんねー悪さばかりしやがって。次は･･･」

　その先に続ける言葉に迷い、瞳が彷徨い、ほんの少し前に過ぎ去った戯れの時間を辿る。あの時、怪盗に腕を取られ、引き寄せられ、そして。
　探偵の指先が誰かの残した熱を辿るように唇に触れた。

「･･･次にふざけた真似をしやがったら、絶対にぶっ殺してやるからな」

　言葉の物騒さとは裏腹の密やかな呟きが、白い怪盗の去った高層ビルの屋上にぽつりと落ちた。

（2007.01.21）

たまにはお題に対してストレートな話にしようと思ったんですが、何だろう、この左斜め45度的曲がり具合は？（苦笑）。
緊張感のあるＫ新を目指してみたんですが、最後の最後でビミョーに工藤さんが乙女になってしまって、キモイよ！
お粗末さまでしたｖ 窓を閉じて下さい お粗末さまでしたｖ

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