煉獄9

Purgatory 9

　　この三週間で日常になった、いつもと同じ一日が始まって終わると信じていた。
　大抵、新一より先に帰って、夕飯の支度をしている快斗の姿がその日はなかった。学校から真っ直ぐ帰ってきた新一は珍しいと思いつつ、たまには快斗にだって用事で遅くなる日もあるだろうと、自分を納得させようとした。しかし、言うなれば、探偵の勘だったのだろう。何かが引っかかった。
　新一は、快斗の部屋になっている客間へ向かった。
　何もなかった。
　僅かにあった快斗の荷物が、綺麗になくなっていた。客間は快斗が来る前の、人の気配の感じられない殺風景な沈黙の部屋に戻っていた。
　テーブルの上に、一通の手紙が置かれていた。
　快斗から、正確には怪盗キッドから探偵の工藤新一に宛てた手紙だった。
　それは、まるで罪人の懺悔のようだった。
　自分が何故怪盗キッドという存在を演じていたか、宝石ばかりを狙い、予告状を出していた理由、それらが簡潔に書かれていた。
　続く手紙の後半は、快斗が何故工藤邸に居着いたのかの理由と謝罪、感謝が綴られていた。
「あの野郎っ」
　新一は手紙を読み終え、怒りに震えた。快斗と、そして気づかなかった自分に対して怒りが沸き上がってくる。
「絶対に許さねえっ」
　携帯電話を取り出し、慣れた番号を呼び出す。
「もしもし、高木刑事ですか？　工藤新一です。至急調べてもらいたい事があるんですが。はい、はい、一刻を争うんです。相手は大量の武器を保有している恐れがあります」
　新一は高木との電話を終えて、次の行動に移るべく無人となった客間を後にする。上着のポケットに入れた手紙に書かれた、最後の一文が新一の胸に暗い影を落とした。

『さよなら』

　恐らく、それは最も重い意味での別離の言葉に違いなかった。
「そんなの、絶対に許さねえからな、快斗」
　走りながら、新一は唇を噛んだ。

　日が暮れて、夜に目覚めて昼間とは違う様相となった街並を、怪盗キッドの衣装に身を包んだ快斗が高層ビルの屋上から眺めていた。
　明滅する都会の光は、一つ一つが命の灯火のように瞬いている。
　白いマントが夜風を受けて、はためいている。
　キッドの上着のポケットには、今本物のパンドラが入っていた。三週間前の満月の夜に盗んだ獲物が、本物だったのだ。
　この三週間、学校へ行く振りをしながら、昼間は全てこの日の為の下準備に当てていた。ようやく、父親の仇を討てる日が来たのだ。ポケットのパンドラがひどく重く感じられた。
　快斗が今見つめる先にある高層ビルこそが、例の組織が日本での拠点にしている場所だった。そして、今日、組織のボスが来日した。快斗が呼び出したのだ。
　本物のパンドラを手に入れた。こちらには取引の用意があると。条件はボスとの直接交渉。キッドが提示した内容を組織が受け入れたのは、キッドが手に入れた宝石がもともと組織も有力なパンドラ候補としてマークしていた物だったからだろう。
　快斗は服の上からパンドラを握りしめた。
　今日で終わる。
　今日で終わらせる。
　不老不死などという馬鹿げた願いの為に繰り返された悲劇と惨劇の連鎖を、今日で断ち切るのだ。そして、父の復讐も全て終わらせるのだ。
　決意を新たにする快斗の脳裏に、探偵の姿が過ぎる。
「･･････新一、怒っているだろうなぁ」
　今頃は手紙を読んでいる頃だろうか。それとも、事件で呼び出され、快斗の不在にまだ気づいていないかもしれない。
　そんな手紙を残すべきではないと分かっていた。しかし、どうしても新一にだけは色々な事を伝えておきたかった。このまま怪盗キッドが世の中から消えて、快斗もいなくなり、新一が真実を知る事なく全てが終わるのは、耐え難かった。
　三週間前のパンドラを手に入れた日、快斗は組織の人間に襲われ、不覚にもケガを負った。致命傷ではなかった。少し休めば、すぐに回復すると分かっていた。自分の身体の状態は把握しているつもりだった。
　しかし、薄汚れたビルの屋上に息を潜めていた快斗を、新一は見つけてくれた。更には「来い」と言ってくれた。きっと、新一は知らないだろう。あの時、快斗を見つけてくれた事が、手を差しのべてくれた事がどれほど嬉しかったか。
　新一が快斗を助けた正確な理由は知らない。けれど、正しい光の中だけで生きているように思える彼もまた、一生消える事のない瑕を抱えていて、恐らくその瑕が探偵に怪盗を助けさせた。
　快斗は工藤新一をもう少しだけ見ていたかった。だから、決着をつける準備が出来るまでの間、そのまま工藤邸の居候になった。何故か、新一も快斗を積極的には追い出そうとはしなかった。
　最大の誤算は、新一に触れてしまった事だった。
　触れてはいけないと分かっていた。けれど、傷ついた瞳の探偵を前にして、快斗は自分の気持ちに嘘がつけず、衝動を抑えられなかった。
　腕の中で快斗を受け入れ、新一は淫らに喘いだ。
　何も言わずに、弱みにつけいるように触れるのは、ずるいと知っていた。
　言うべき言葉はあったけれど、いずれいなくなると決めている快斗には、それを口にする事はできなかった。資格もなかった。しかし、かといって、途中でやめる気はなかった。やめる事などできなかった。快斗に出来る事は、せめて、これ以上、同じ夜を数えた接触に意味を持たせないようにする事だけだった。
　新一を離す事が出来なかった利己的な自身を嘲笑う、もう一人の冷静な自分がいた。
　あの夜、胸の奥から迫り上げてくる感情を言葉にする代わりに、名前を呼ぶと、新一は応えて快斗を見つめて腕を回してくれた。
　手を伸ばしてくれた事が嬉しくて、回された腕が優しくて、その後、快斗は自制を失い、ただひたすら新一の身体を貪り尽くした。
　翌日、やはり快斗は狡さから何事もなかったように振る舞い、新一は優しさ故にそれに付き合ってくれた。そして、今日、快斗は全てを踏みにじるようにして、工藤邸を後にした。
「オヤジ、もうすぐ全てを終わらせるよ」
　家族、幼なじみ、友人、たった一人の探偵。
　置いてきた全ての想いの振り払い、快斗は決然と顔を上げ、グライダーで夜空へ飛び立った。

（2008.05.04初出　2022.02.26再掲）

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