天に祈りを1

天に祈りを
1

　その時、工藤新一は、自分がどれだけ犯罪者にとって脅威的な存在であるかを失念していた。

　新一が応接室に案内されてから、三十分は経っただろうか。出されたコーヒーはすっかり冷めてしまった。
　新一は部屋の中をぐるりと見渡した。置かれている家具や内装は、どれも見栄えのする派手な物ばかりが揃えられていた。海外支社を持つ大企業にすれば当然なのかも知れなかったが、新一の感覚からすると、どれも成金趣味で品がないように感じられた。
　座ってただ待つには、新一の好奇心は温和しくはなかった。立ち上がり、部屋の中を見て回る。壁にかかっていた一枚の絵の前で、足を止めた。
　有名画家作となっている絵画だった。
　新一は幼い頃、両親に連れられて行ったアメリカの美術館で同じ絵を見た事がある。だから、分かる。今、目の前にある絵画は偽物だ。探偵としての観察力と記憶力は伊達ではない。偽物がどんなに巧緻な作りでも、本物の持つ深みがなかった。鑑定士ほどの精度ではないけれど、新一は真贋を看破する事ができた。

　ノックされ、ドアが開いた。先刻、新一をこの応接室に案内してくれた男が入ってきた。新一を部屋に案内するまでの間、神経質そうに視線がキョロキョロと彷徨い、男は工藤新一の様子をずっと窺っていた。明らかに挙動不審な様子に眉を顰めたが、男の立場として探偵である新一を警戒していると考えるならば、彼の挙動不審も仕方ないものとして、頷けた。
　笠原と名乗った秘書の男が頭を下げた。
「おまたせしました、工藤様」
　横に避けて道を空ける笠原の後ろから、壮年の小太りの男性が入ってきた。
　男は脂ぎった顔に明らかに外向けのにこやかな笑みを形作り、新一に向けて右手を差し出した。
「初めまして、北条産業専務の風間秀吾と申します。あの有名な名探偵、工藤新一さんにお会い出来るとは光栄ですな」
　新一も同じように社交辞令の笑顔を浮かべて、風間と握手を交わした。
「初めまして、風間専務。工藤新一です。急なお願いでしたのにお時間を作っていただき、ありがとうございます。まさか、専務さん本人に直接お会いできるとは思いませんでした」
「あの工藤探偵に失礼があってはいけませんからな。下の者には任せられません。それで、ご用件は？」
「先日、こちらに届けられた怪盗キッドの予告状についてお伺いしたい事があります」
　五日前、北条産業の社長室の机に、誰も置いた覚えのない白い封筒があった。中に入っていたのは、一枚のカード。内容は簡潔だった。

　『　2月19日　貴社のアメシストが奏でる歌を頂きに参ります。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　怪盗キッド　』

　文末には、恒例の得意げに笑うキッドマークが描かれていたという。警察に見せた所、特徴などから本物であると判断された。
「流石、工藤さんですな。お耳が早い。どうぞお掛け下さい」
　促され、新一は再びソファに腰掛けた。秘書の笠原が、手をつけられずに冷めたコーヒーを下げ、新しいコーヒーを新一と風間の前に置いた。
「どこで、そのお話を聞かれましたか？　警察には届けましたが、社長命令で無用の騒ぎを避けるために内密にとお願いしておいたのですが」
「どこにでも耳はあります。特にこういう話は足が速いものです。申し訳ありませんが、僕も探偵をしているので、情報元は明かせません。一応、彼らの名誉のためにも言いますが、警視庁でない事は確かです。二課の方々は口が堅くて。でも、既に、マスコミの取材依頼などがあったのではありませんか？」
「そうなんですよ。件数はそんなに多くはありませんでしたが、あのハイエナ連中はどこで嗅ぎつけてくるのやら。おっと、失礼」
「いえ、蛇の道はヘビ。人の口に戸は立てられませんから」
　風間は禿げ上がった頭を撫で、太い腹を揺すって笑った。
「確かに。仕方ありませんな。それで、工藤さんのご用件は、先ほど怪盗キッドの予告状と言われたが」
「はい。ぜひ、今回届いたキッドの予告状を見せていただきたいのですが」
　風間は怪訝そうな顔をした。
「私どもは特に工藤さんに仕事を依頼した覚えがありません。警察からの指示ですかな？　いや、警視庁からの情報ではないと言われてましたな。では、一体、誰の指示で予告状を見たいのですか？」
「残念ながら、この怪盗キッドの件に関しましては、特に依頼人はいません。誰の指示でもありません。言葉は悪いですが、僕の個人的な興味です。僕と怪盗キッドとは、以前から、何故か多少の因縁がありましてね。彼の予告状が出たとの噂を耳にして、少々気になりまして。それで、こうして伺った次第です。僕に、キッドの予告状を見せていただく事はできませんでしょうか？」
　風間は小さく息を吐いた。
「分かりました。あの有名な工藤探偵の頼みとあれば、お断りできません。この件は私に一任されていましてね。いいでしょう。私の責任で、あなたにお見せしましょう。笠原、持ってきなさい」
「はい、ただいま」
　部屋を辞去した笠原は、すぐに戻ってきた。持ってきた紙を風間に渡す。風間は確認するようにその紙を眺めてから、向きを変えて新一に渡した。
「どうぞ、工藤さん」
「拝見します」
「本物は警察に渡してありますので、コピーです」
　予告状のコピーの内容は、新一が聞いていたものと変わりはなかった。特に捻った暗号でもなく、文字は滲んで読みにくかったが、予告日時は文面のまま二日後の19日と解釈して間違いなさそうだった。
「この奏でる歌というのは？」
「そのアメシストは、オルゴール箱の蓋に飾られているのです。だから、オルゴールの事を差しているのでしょう」
「そうですか。所々、文字が滲んで見にくくなっているようですが、これはどうされたのですか？」
「初めから滲んでいたんです。この封筒が机に置かれていた日は、ひどい雨の日でしたので、恐らくそれで封筒の中まで濡れて、滲んでしまったのではないかと勝手に思っています」
「なるほど」
「何か分かりましたか？」
「いえ、予告状からは特にこれと言った事は。たまに、キッドの名前を騙る偽者が出る場合もありますが、今回はどうやら本物のようですね。もし、差し支えなければ、そのアメシストを見せていただけませんか？」
「ええ。勿論、かまいませんよ。できれば、名探偵の工藤さんから警備について何か助言がいただければ、こちらも助かりますからな」
「どれだけお力になれるか分かりませんが、出来る限りお手伝いさせていただきます」
「頼みましたぞ」
　身体中の脂肪を重そうに抱えて立ち上がる風間に続いて、新一も立ち上がった。

（2008.10.19初出　2012.11.11再掲）

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