傷痕1

傷痕
1

※昴さん居候前です。

　その日、コナンが工藤邸に戻っていたのは、偶然だった。蘭が空手部の合宿に出かけ、小五郎も町内会の付き合いで出かけるというので、阿笠博士の家に泊まると偽り、自分の家に帰ってきたのだ。勿論、阿笠博士には口裏合わせを頼んでおいた。
　確認した範囲では、周囲に工藤邸を窺う不審な人間はいなかった。それでも、普段は人気のない家で電気を使うと、いらぬ詮索を受ける可能性もあるので、コナンは灯りをつけなかった。
　自分の家なのに、電灯すら自由に使えない不便さがある。蘭の家も居心地が悪いわけではない。それでも、やはり、生まれ育った自分の家、慣れ親しんだ自分の部屋で過ごす時間は寛いだ。幸いにも、今夜は満月だった。照明をつけなくても、ベランダへ続く自室の窓を開け放ち、コナンは月明かりで読書を楽しんでいた。
　けれど、夜の静寂は突然破られた。
　ばさりと羽音に似た音に続き、影が月の光を遮り、ベランダに落ちてきた。
「キッド!?」
　何故だか分からなかった。そう思ったのは、あまりにも見事な満月の所為か。確認するよりも、確信だった。無意識に口をついた言葉で、コナンは落ちてきた存在が何なのか、自覚した。
　ベランダに不自然に落ちてきた見覚えのある白い影に、コナンは警戒も忘れて駆け寄った。
「何だ、名探偵、今日はご在宅かよ。珍しいな」
　ベランダに倒れこみ、僅かに視線だけ上げたキッドの顔から、ひびの入った片眼鏡が外れて、素顔が晒される。人工の明かりではない月明かりにすら、その酷い顔色を隠しきれていなかった。
「来るんじゃなかった」
　舌打ちするようにそう呟いて、不敵な怪盗は気を失った。
　力を失った彼の身体を覆う白いマントの肩口に、じわりと赤い染みが広がった。

　突然、研究を中断させられ、夜更けに隣家に引っ張り出されても、灰原哀はいつもと変わらず冷静だった。
　小学一年生の力ではベッドに引き上げられず、せめて、ベランダから室内の床に移動させられ、横たわる怪盗を見せられても、哀は髪一筋の動揺も見せなかった。
　哀は乞われるままに懐中電灯の頼りない明かりの元でコナンを手伝わせ、怪我をした怪盗の手当てをしてやった。
　一通りの処置を終え、手を拭きながら、哀は横たわる怪盗を改めて見下ろした。
　左肩にあった鋭利な刃物による切創。掠った程度で、出血の割に傷は深くなかった。それよりも、左肩を庇って右側から落ちたのだろう。右半身の打撲の方が、問題だった。調べた様子では骨折はしていないようだが、ひびが入っているかどうかは、レントゲンを撮らないと何とも言えない。落ちた時に頭部を打っていれば、更に事態は深刻になる。
　哀は軽く溜息をついた。
「何度も言っているけど、私は医者じゃないのよ、工藤君？　彼が気がついたら、病院に行く事をお勧めするわ」
「分かってるよ、灰原。無理を言ってすまねえ」
　手当てのために、キッドのシャツは切り裂いて脱がせた。意外にしっかりと筋肉のついた身体に巻かれた白い包帯が、痛々しく見えた。
「灰原、この事は博士には…」
「分かっているわ。最近、博士、高血圧気味なのよ。余計な心配をさせたくないもの。庭に落ちてきた鳥の手当てに呼び出されたとでも言っておくわ」
「悪い」
「じゃ、私は帰るわよ」
「おう」
　ドアに手を掛け、哀は視線だけをコナンに投げた。
「一つ忠告しておくわ、工藤君。あなたが助けたのは、傷ついた小鳥ではなくて、手負いの獣よ。油断すれば、あなたが喰い殺されるわ。気をつける事ね」
　冷静な少女は揶揄するように口の端で小さく笑って、ドアの向こうへ消えた。

　灰原の背中を見送ってから、コナンは軽く息を吐いて、キッドの容態を見ようと、振り向いた。
「彼女も、お前の正体を知ってるんだな」
　さっきまで気を失っていた筈の怪盗は、横たわったまま射抜くような視線を探偵に向けていた。
「何で助けた？」
　怪盗の至極当然の問いに、少年は大人びた仕種で肩を竦めた。
「それが、人ん家に勝手に落ちてきた奴の言い種かよ」
「誰もいないと思ったんだよ。探偵君がいると分かっていたら、来なかったさ」
「人ん家を何だと思ってやがる」
「セカンドハウス」
　嘯いて、起き上がろうとしたキッドは、軋みをあげる身体に目的を果たせなかった。痛みに呻く事なく、声を殺したのは怪盗紳士としての矜持か。
「もう少し寝ていろ。怪我しているんだぞ」
「お前の指図は受けない」
「警察を呼んで欲しいか？」
「何で助けた？」
「素人の処置だからな。後で、ちゃんと医者にかかれよ」
　互いに、意思の疎通をみない会話を諦めて、口を閉ざした。
　コナンはキッドから距離を取り、椅子に座った。怪我をしているので無茶は出来ないだろうが、念の為の監視だ。横たわるキッドは天井を向いて、コナンを見ようとはしなかった。沈黙と月光とが、部屋に降り積もる。
　どれくらい時間が経ったのか、頬杖が外れた衝撃で、コナンは自分が眠っていた事に気がついた。慌てて視線を巡らせると、自分を冷ややかに見つめる瞳とぶつかった。
　少し回復したのか、キッドはベッドを背もたれ代わりに身体を預け、起き上がっていた。
「流石の名探偵も、子供の身体には勝てないようだな」
　コナンは自分の失態に、皮肉な笑みを浮かべているキッドを黙って睨みつけた。
「お子様は、もうとっくに寝る時間だろ。無理してないで、可愛いあの子のベッドに早く潜り込んだらどうだ？」
　怪我の所為か、キッドの言動は揶揄というより、悪意に満ちていた。
　月光に透かして見れば、キッドの額に滲む汗と、最初よりは幾分マシになったが、まだ悪い顔色が見て取れた。
　コナンは子供の姿に似つかわしくない溜息をついた。無言で立ち上がり、タオルを取り上げた。露骨に顔を顰めるが、思うように動けないキッドの汗を拭ってやる。触れる肌は熱く、やはり、発熱しているようだ。本当は少し眠ればいいのだが、キッドの警戒心が緩む事はなさそうだった。離れて座っていても分かるほど、キッドは周囲を警戒し、神経を尖らせている。
　コナンは汗を拭いてやりながら、少しだけ感慨を感じる。片眼鏡のないキッドの顔をこんなに近くで、じっくりと見たのは初めてだった。多分、素顔だ。頬についた傷に血が滲んでいる。
　怪盗は工藤新一と似た顔立ちで、多分、同世代。本来ならば、普通の高校生として平凡な日常を送っているだろうに、何故、彼は怪盗キッドなどという泥棒を演じているのだろうか。一歩間違えば、命に関わりかねない、こんな怪我まで負って。
「お前、何で泥棒なんてやってるんだ？」
「楽しいからに決まってんだろ」
　確かに、怪盗キッドの行状は愉快犯そのものだ。しかし、それだけではない事を、探偵は分かっていた。彼は何かの組織と戦っている。彼が盗みをするのも、恐らくはそれに絡んでいる筈だ。勿論、今どんなに問い詰めても、彼が理由を喋らないだろう事も分かっていた。分かっていて、探偵の性質として無駄な質問が口をつくのを止められなかった。
「楽しいから、か。でも、こんな怪我までするんじゃ割りに合わないんじゃねえか？」
　多分、それは口にしてはいけない言葉だったのだ。
「怪盗キッドなんて、やめちまえよ」
　一瞬、何が起こったのか、コナンには分からなかった。視界が回って、気づいた時には、キッドの左手に首を掴まれ、床に叩きつけられていた。
「お前に、何が分かる!?」
　ポーカーフェイスが売り物のキッドが激昂していた。流石に打撲の右手は動かなかったようだが、左肩の怪我は忘れたかのように、左手一本でコナンを床に押さえつけ、そのまま首を締め上げられた。

（2006.08.11初出　2010.05.23再掲）

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