傷痕2

傷痕
2

　普段ならば、聞き流せた。ユーモアを交えた切り返しで、探偵の追及を躱しただろう。
　しかし、傷の痛みは怪盗から余裕を奪った。
　紳士である怪盗キッドの仮面が落ちて、ただの高校生の黒羽快斗が姿を現す。
　反射的に左腕が動いていた。奇術師であるが故に、快斗は両利きだった。どちらの手も同じように使えた。
　慧眼の探偵は、キッドの、快斗の虚勢を見透かすように、その言葉を口にした。
「怪盗キッドなんて、やめちまえよ」
　意識した訳ではなかった。気がついた時には、探偵の細い首を鷲掴み、床に叩きつけていた。
「お前に何が分かる!?」
　何らかの理由で、江戸川コナンという子供の姿をしている高校生探偵、工藤新一。かなり危険な組織と敵対しているようだとは、分かっている。
「･･･っ」
　快斗の左手の下で、探偵が苦しげにもがいている。
　本来は快斗と同じ高校生なのに、こんな子供の姿で、正体を隠して暮らしている。それが楽しい暮らしだとは到底思えない。現に、探偵は元の姿に戻ろうと奔走している。
　それでも、彼には大勢の理解者がいる。
　明るい光の世界で暮らし、彼を理解し、支えてくれる人達がいる。
「知った風な口をきくな！」
　自分で望んだ事ではあるが、快斗の戦いは彼一人の孤独なものだ。協力してくれる父の元付き人の寺井が居るが、それでも極力巻き込まないようにしている。高齢の寺井に心配をかける事は出来ない。快斗が、怪盗キッドとしての弱音を吐く相手などいる筈もなかった。
　のしかかり、もう少し力を加えれば、折れてしまいそうな細い首。探偵は酸欠に喘いでいる。小さな手が、自分の首を絞める手に必死で爪を立てるが、快斗は力を緩めなかった。
　酸素を求めて大きく開いた口、苦しさに歪む瞳。けれど、窒息寸前の探偵の双眸には、それでも、許しや助けを求める彩はなかった。真っ直ぐに怪盗を見つめ続ける瞳は、その慧眼でどんな嘘も許さない。
　それは、まるで真実だけを映す鏡のようだ。快斗は探偵の瞳の中に、醜悪な感情に歪む自分の姿を見つけた。そこに映る怪盗は、快斗を嘲笑するかのように、口の端を歪めている。
　そこには大好きだった父から引き継いだ、怪盗キッドはいなかった。

『快斗、舞台の上では、笑顔と気品を損なわず、いつ何時たりとも、ポーカーフェイスを忘れてはいけないよ』

　懐かしい声が脳裏に蘇り、快斗は弾かれたように探偵の身体から離れた。
　突然気道を解放されて、探偵は小さな身体を折り曲げて、激しく咳き込んだ。咳き込みながら、酸素を取り込む探偵のシャツが捲れて素肌が見えた。快斗は、探偵の左脇腹にある、ひきつれた傷痕に気がついた。
　銃創だ。
　涙を浮かべながら、探偵は咳き込んでいる。彼もまた、その小さな身体で戦っているのだ。快斗と同じように、本当の自分の姿を殺して、仮初めの姿かたちで。
　右半身を庇いながら、快斗は再び探偵に近づいた。荒く肩で息をしている少年の、シャツから覗く傷痕に、指先で触れる。小さな身体がびくりと反応した。
「･･･キッド？」
　生理的な涙に濡れた瞳が快斗を映す。快斗は不思議に思いながらも、自分の中の衝動に素直に従った。身体を屈めて、探偵の傷痕に唇で触れた。
「キ、キッド!?　おい、バカ、やめろ！」
　探偵の小さい手が慌てて、快斗の髪を掴んで自分から引き剥がそうとするが、快斗はかまわずに舌を這わせ、歯を立てた。
「痛っ」
　歯を立てた後に、もう一度今度は労わるように舌で傷痕に触れる。探偵の震えを感じて、快斗は薄く笑った。
「感じているのか？」
「んな訳ねーだろうが」
　睨みつけてくる探偵を見下ろしながら、快斗は左手だけで、コナンの両腕を一つにまとめて床に押さえつけた。
「オレが怪我していると思って、油断し過ぎじゃねーか、探偵君？」
　小さな腕が快斗の手を跳ね返そうともがくが、大人と子供の力の差は歴然だった。
「麻酔銃もサッカーボールもなければ、オメーは頭がいいだけの、ただの小学生なんだぜ」
　否定しようのない事実を突きつける。快斗の身体の下で、コナンは身動きが取れないでいた。
「ほら、もう抵抗も出来ないだろ？　何をされても文句は言えないよな」
　快斗は勝者の笑みを悠然と浮かべた。
「探偵だって、割に合わないんじゃねーの？　こんな怪我してさ」
　シャツから覗く銃創を視線で辿り、鼻で笑った。
「お前こそ探偵やめたら、どうだよ」
　圧倒的優位に、本調子ではない怪盗に隙が生まれたのは、その時だった。
「調子に乗ってんじゃねーよ！」
　探偵の膝が、容赦なく怪盗の腹部にめり込んだ。
　思わぬ反撃に快斗は腹筋を締めるのが間に合わず、まともに食らってしまった。無理な力が加わり、身体中に激痛が走った。
　たまらず、快斗はコナンを離して、床に倒れ込んだ。
「油断しているのは、どっちだ」
　探偵は起き上がり、冷ややかに怪盗を見下ろし、吐き捨てた。
　コナンはそのまま部屋を出て行った。倒れこみ、一人残され、快斗は不覚にも心細く感じる。
　しかし、探偵は怒って出て行ったわけではなく、すぐに戻ってきた。手には錠剤と水の入ったコップを持っている。
「ほら、鎮痛剤。嫌なら、別に飲まなくていいぞ」
　コナンは賢しくも、キッドの警戒心を先回りしている。
　こんな状況で、本当に鎮痛剤か確認出来ないものを口になんて出来る訳がない。何より快斗は薬の類の効きが悪い。飲んでもあまり役に立たない。しかし。
　快斗は自分を揺るぎなく見下ろす探偵を、真直ぐ見つめた。この探偵は決して、怪盗の味方ではない。だが、今は敵でもない。
「飲ませてくれよ」
　何とか左腕を支えに、快斗は身体を起こした。
　おとなしく口を開ける怪盗に、コナンは鎮痛剤をそこに放り込んだ。
　探偵から差し出されたコップに快斗が口をつけると、ちょうどいい角度に傾けてくれる。熱を持った身体に冷たい水が心地よい。
「オレは探偵をやめないぜ」
　薬と水を飲んで一息ついた快斗に、コナンは言った。
「探偵をやめちまったら、派手で自意識過剰な怪盗を追いかけられなくなるからな」
「なら、オレも怪盗キッドをやめられないな。小生意気な探偵君が、折角追いかけてきてくれるんだもんな」
　探偵が用意してくれた逃げ道に、怪盗も素直に従った。

　夜明け前の最も闇が深くなる時間帯。静まり返った瀟洒な洋館の玄関が、音もなく開く。
　そこから出て来たのは、工藤新一の服を黙って拝借した快斗だった。流石に今の身体状況で、グライダーを操る自信はなかった。周囲に人がいないのを確認した上で、門を開ける。門を出た所で、快斗は立ち止まった。左手の甲についた爪の跡が鈍く痛む。探偵の首を絞めた時についた、小さな手の抵抗の跡は、薄く血を滲ませている。自分の醜さの象徴でもある。
「痛えなぁ」
　怪盗を揺るぎなく真直ぐに追い続ける瞳に敬意を込めて、誰かの爪跡に唇を寄せる。それから、服の上から包帯に触れた。
「この借りは、いずれ改めて返させてもらうぜ」
　探偵が眠っている筈の窓を見上げ、快斗は優雅に一礼してみせる。
　夜の闇に吸い込まれるように、怪盗は立ち去っていった。

「相変わらず気障な野郎だ」
　カーテンの影から、外を窺っていた探偵は、怪我をして尚、虚勢を張る怪盗の一礼を見て、心底呆れた。
「ったく、こんな痣作りやがって、どうしてくれるんだ」
　首にくっきりと残された、キッドの指の跡に触れる。彼の孤独と闇が咽喉に喰い込み、焼けつくように痛む。
　だが、まずは目先の問題として、蘭や阿笠博士や学校に対して、この物騒な痣をどう誤魔化すか思案して、コナンは溜息をついた。

（2006.08.11初出　2010.05.25再掲）

自分的に見ると、別ジャンルの傾向が顕著な一品。「看板に偽りあり」というコピー本からの再録です。2006年、もうそんな昔になるのか。早いなー。
本格的にコナンに移ろうかどうしようか、迷っていた時期だったハズ。当時はそれまで、あんまりコナンでカプで書く気がなかったもので、本当に何だか色々と手探りで苦労した覚えがあります。今から見返すと、もの凄い殺伐感がありますな（苦笑）。戦争物をやっていた所為だな、こりゃ。
何が萌えだったかというか、片手で江戸川を叩きつけて首を絞められちゃう体格差萌えーだった気がします。
この頃は、まだＫコの方が書きやすかった気がします。同じコピー本に載せた快新はまた微妙な感じだったなぁ（遠い目）

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