おやくそく1

おやくそく
1

　強風に煽られ、バランスを崩す。自分がどこに立っているか思い至ったが、時既に遅かった。まずいと思った時には、もう身体が傾いでいた。
「しんいちっ！」
　普段は「探偵」としか呼びかけてこない怪盗キッドが、常のポーカーフェイスを投げ捨てた必死の形相で、新一の名前を呼んでいる。
　ひどくゆっくりと時間を知覚した。
　追いつめられた空調機械室の屋根の端から足を踏み外し、自由落下を始めた自分に向けて、伸ばされたキッドの手が見えた。白い手袋に包まれた手を咄嗟に取ろうと、新一も腕を伸ばす。けれど、ほんの少し指先が触れただけで、距離は広がり、落ちつつある手と助けようとする手が繋がる事はなかった。
「しんいちー！」
　悲鳴のようなキッドの声が聞える。
　落ちていく自分の心配よりも、何故、彼がそんなに必死に自分の名前を呼ぶのか、不思議だった。

　左肩から冷たいコンクリートに落ちた衝撃に、新一は一瞬飛ばしかけていた意識を取り戻した。
「う…」
　突然の眩しさに、瞳を開けられない。
　確か、夜に放り出された筈なのに、閉じた瞼越しに暖かな陽光を感じて新一は訝しむ。
「おーい、だいじょうぶかよ？」
　間近で子供の声が聞こえて、遠慮がちに身体を揺さぶられた。
　手を翳して影を作り、目を慣らしながら、ゆっくり瞼を上げる。
　指の隙間から、大きな瞳の七、八歳ぐらいの子供が新一を覗き込んでいるのが見えた。
　何が起こったのか、何故こんな所に子供がいるのか、訳が分からず目を瞬かせながら、新一は身体を起こした。
　ようやく光に慣れた眼で周囲を見回して、状況を確認する。そこは確かに、新一が怪盗キッドと対峙していた高層ビルの屋上だった。だが、時間がおかしい。夜だった筈なのに、頭上には青空が広がり、太陽が輝いている。屋上の印象に少しだけ違和感があるのは、光の加減か。自覚はなかったが、気を失っていたのだろうか。機械室の陸屋根を見たが、そこに白い怪盗の姿を見出すことは出来なかった。代わりに、知らない子供が目の前に座っていた。
　大きな瞳で愛嬌のある顔立ちだった。奔放な癖毛が少年を朗らかに見せている。
「なあ、だいじょうぶか？」
　反応を見せない新一を、子供が心配そうに覗き込んでくる。状況把握が出来なかったが、まず子供が言うように、自分の状態を確認した。
　約三メートルの高さからろくな受身を取らずに落ちた筈なのに、感じたのはせいぜい倒れ込んだ程度の衝撃だった。咄嗟に庇ったので頭は打たなかった。左肩は打ち付けたが、骨は折れていない。軽い打撲で済んだようだ。
　とりあえず目立った怪我はないようだった。心配してくれる見知らぬ子供に、新一は笑顔を見せて安心させてやる。
「ああ、大丈夫だ」
「でも、すっげー顔色わるいよ」
「いや、本当に大丈夫だ」
「そっか、よかった」
「ところで、それよりも･･･」
「ねえ、だいじょうぶならさ、おしえてよ。今のどうやったんだ？」
「え？」
　質問をする前に、子供に先手を取られた。
　新一の前に座り込んだ子供は、瞳を輝かせている。新一は向けられた無邪気な期待に、訳が分からず戸惑った。
「どうやったって、何の事だ？」
「決まってんじゃん。今の出現マジックだよ！」
「は？」
「さっきまでこの屋上にはオレ一人だったのに、お兄ちゃん、急に出てきたじゃん。ドアが開いたのも分からなかったよ。マジックの練習をしてたんだろ？」
「あ、いや、オレは…」
　状況が飲み込めず、新一は混乱した。本気で困惑している新一を子供が不思議そうに見つめている。その時、通用口の扉が開いた。

「こら、快斗くん！」

　飛んできた声に、子供が首を竦めた。
「全く声がすると思えば、快斗くん、ここは関係者以外立入禁止だって言ったでしょう！」
　通用口の所でビルの従業員らしき女性が腰に手を当てて、怒った顔をしている。しかし、眼が笑っている。本気で怒っているわけではないようだ。
　快斗と呼ばれた子供も分かっているようで、女性従業員ににこにこと無邪気な笑顔を向ける。
「サキお姉さん、ごめんなさい。すっごくいいお天気だったから、つい入っちゃった」
　舌を出しながら謝って、子供は新一の手を取った。
「怒られちゃったね。お兄ちゃん、行こ」
「え？」
「ほら、早く。もっと怒られちゃうよ」
　子供は強引にぐいぐい新一の手を引っ張った。新一は訳が分からず、それでも、ここは子供に従うのが懸命だと計算する。
「あら？　快斗くん、お兄さんがいたの？」
「しんせきのお兄ちゃんだよ」
「すみません、こいつに誘われて入ってしまいました。申し訳ありませんでした」
　新一が営業用の笑顔で礼儀正しく詫びると、女性従業員は頬を赤らめた。
「気をつけていただければいいんです。もう入らないでくださいね。他の従業員に見つかるとうるさいですから」
　女性従業員は新一と子供の為に、屋内へ続く扉を開いてくれた。

（2006.12.29初出　2010.06.17再掲）

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