おやくそく2

おやくそく
2

　高層ビル近くの公園のベンチで、新一は頭を抱えていた。
　女性従業員に屋上を追い出されて、とりあえず落ち着いて考えられる場所を求めて、新一はビルの外に出た。何故か新一を気に入ったらしく、快斗と呼ばれた子供も一緒についてきて、彼のお勧めの公園に案内された。
　ベンチに座り、新一は自分の思考に集中する。公園に向かって歩きながら快斗に色々と訊いた結果、導き出した答えは俄かに信じ難く、新一に盛大な溜息を何度もつかせた。
　だがしかし、怪しい薬を飲まされ幼児化した非現実的な実体験を持つ人間としては、どんな信じられないような出来事でも頭ごなしに否定は出来なかった。
　そして、何よりも探偵の性質として、目の前の現実を受け入れるところから始めなければ、前に進めない事を知っていた。
　だから、新一は自分の身体が子供に戻った事を受け入れたように、今の現実を受け入れた。

　自分が今いる場所は、過去の世界だ。

　阿笠博士のとんでもない失敗発明品を使った訳でもないのに、新一は時間を遡り、過去と呼ばれる時代に落ちた。
　何でこんな事になったのか、新一は思考を整理するために事態の順を追った。

　発端は怪盗キッドだった。
　いつものごとく為されたキッドからの予告状の暗号を解いて、新一は警察とは別に単独で逃走経路の途中で待ち伏せる事にした。個人である新一には出来ない人海戦術は警察組織に任せた。新一は個人だからこそ可能な、極秘裏に待ち伏せをする事を選んだ。
　最近のキッドからの暗号は大抵、二重構造になっていた。比較的簡単に解読できる段階で、犯行の日付と時間が特定できた。それが分かった時点で、新一は警察には連絡する。そして、更に深く解読していくと侵入経路、逃走経路が読み解けた。
　勿論、犯罪は防止されなければならない。また市民の義務として、新一は出来る限り得た情報は警察に提供している。だが、それ以上に、新一は負けず嫌いでもあった。自惚れではなく、あまりに高度すぎる暗号は、間違いなく新一へ向けられた挑戦状に違いない。律儀に予告状を送ってくる、レトロな怪盗に敬意を表して、新一は警察とは別に動いて、キッドと二人だけで対決し続けていた。
　今夜も今までと同様、新一は一人で逃走経路の中継地点である高層ビルの屋上に赴いていた。いつも見下ろされるのが癪に障るので、少々子供じみているかなと思いつつ、今日は反対に見下ろしてやろうと屋上にある空調の機械室の陸屋根に登り、月を背にして新一は白い怪盗を待ち構えていた。
　高層ビルの正真正銘の頂上は、風が強かったが気持ちよかった。
　一番高い場所から、明滅する夜の世界を見下ろした。
　足下から広がっていく人の営み、頭上を覆う満天の星空と月。こうしてその狭間に立っていると、世界の全てを見渡す優越感と、天と地とそのどちらにも属せない孤独を感じる。それが、怪盗キッドの立つ世界。
　日付が変わる三十分ほど前に、暗号に記された予定通り白い影は姿を現した。
　新一の姿に気づいているだろうに、怪盗は方向転換をする事なく真っ直ぐに新一のいる高層ビルの屋上に降り立った。
　探偵である自分の姿を見つけて、彼が逃げるとは微塵も思わなかった。そんな姑息な真似は彼に似合わない。むしろ、正面からの対決こそを望んでいるだろう。だからこその、予告状であり、暗号である筈だ。
　新一が見つめる中、一瞬にしてグライダーを畳み、怪盗キッドは優雅にマントを捌いた。機械室の上に立つ新一を、いつもとは逆に見上げる形になる。
「今日こそは捕まえてやるぜ、怪盗キッド」
　高らかに宣言する。多少、芝居がかっている自覚はあったが、それぐらいのはったりを見せなければ、怪盗を名乗る男の先手など取れない。しかし、キッドは新一のこれ見よがしの挑発には乗ってこなかった。ただ無言で新一を見上げている。
「何だ、今日は随分と元気がないな。失敗でもして、目的の宝石を盗めなかったのか？」
　待ち伏せるために、怪盗の首尾は確認しなかった。キッドが盗みを失敗したり、警察に捕まる事を考えていなかった自分の思考に気づき、新一は顔に出さずに少しだけ腹立たしく思う。中森警部達の労力を侮っているわけではないのだが、それでも、彼らに捕まる怪盗キッドの姿を想像する事が出来ないのも事実だった。
　キッドは変わらずに無言で掌を返すと、何もなかった筈の手の上に大粒のダイヤモンドが現れた。
　新一は口笛を吹いた。犯罪を誉めるわけにはいかないが、わざわざ予告状を出して仕事をやりにくくしているのに、それでも予告通りに窃盗を成功させる彼の手腕は見事だと言わざるをえない。
　通常、キッドは盗んできた宝石を月に翳す。それにどんな意味があるのか、新一には分からなかった。しかし、今夜は、キッドは宝石を月に翳せなかった。キッドと月の間に、新一がいるからだ。月の光を遮るように、新一は立っていた。キッドは何も言わずに、重力を感じさせない軽やかな動きで、新一と同じ高層ビルの頂点を極めた。真の頂上で、月に見守られながら探偵と怪盗は対峙した。
　いつもなら軽口の一つぐらい出てもおかしくないのに、饒舌な筈の怪盗は、今夜は寡黙を貫いている。冴えない表情の怪盗は、新一と視線を合わせようともしない。
　それではいけないと思いつつも、あまりに怪盗からやる気が感じられないと、探偵も捕まえる気が起きなかった。
「何だよ、本当に調子狂うな。マジで具合でも悪いのかよ。風邪でもひいたか？」
　揶揄する言葉にも反応せず、キッドは新一を見ようともせずに、盗んできた宝石をいつも通りに月に翳した。短時間の儀式はすぐに終わり、それだけで、キッドは今回の獲物に対する興味を失ったようだった。ダイヤを乗せた手を無造作に新一に向けてきた。まるで、取りに来いと言わんばかりの動作だ。やはり、一言も発さない。
　新一は困惑した。何か罠でもあるのかと考えかけて、その考えを打ち払う。探偵が怪盗を捕まえる為に罠をかけるのならともかく、怪盗が逃げる為以外に、どんな罠を探偵に仕掛けるというのだろうか。怪盗を捕まえる為には、距離を縮められるのなら、それは探偵の有利に働く。新一は警戒しながら、キッドに近づいた。
　満月に近い明るい月に浮かび上がる、二人の影が近づいていく。
　伸ばされた手のすぐ先に来ても、キッドは行動を起こさなかった。宝石を突き出したまま動かない。多分、これはいつものように返しておいてくれという意思表示なのだろう。こんな至近距離までの接近を許す怪盗に、新一も完全に気が殺がれた。躍起になって捕まえる気にもなれず、新一はキッドの手からダイヤを取り上げた。
　時価数億円と言われる宝石が月光を弾いて煌いている。二重三重に張り巡らされた厳重な警備を掻い潜り、苦労して手中にしながら、それをあっさりと返却する。宝石は加工ルートや販売ルートを確保しておかなければ、処分に困る代物ではあるが、怪盗キッドの目的は今も昔も金銭ではないと思われている。愉快犯と評されても仕方のない彼の行動を理解できる者はいなかった。
「本当に、今日はどうしたんだ、お前」
　やる気のない相手につまらなげに新一は呟いて、手の中の宝石から怪盗へ視線を移そうと顔を上げた。
「！」
　伸ばした腕の分だけあった距離が既になかった。
「キッド!?」
　目の前で白いマントが翻った次の瞬間、新一は怪盗の腕に抱き竦められていた。
　月を背景に、二つの影は一つに重なった。
　新一は瞳を見開き、事態を理解できなかった。驚きのあまり、手の中からダイヤが滑り落ちた事にも気づかなかった。硬質な音を立てて、時価数億円のダイヤがコンクリートに転がった。この状況を持ち主が目撃したら、卒倒している事だろう。
　しかし、新一はそんな事に関わっている余裕はなかった。しがみつくような切なさで、怪盗キッドは新一を抱き締めていた。
「ちょ、おい、離せよ！」
　息が詰まりそうな程に強く回された腕から慌てて抜け出ようともがくが、キッドの戒めは緩まない。キッドが何を意図して、新一を抱き締めているか想像もつかなかった。ただ、自分達の体勢は恋人同士の熱い抱擁のようで、そう考えた時たとえ誰も見ていなくても、遮る物も隠れる物もない高層ビルの屋上で、新一は真っ赤になった。
「しんいち･･･」
　耳元で掠れたようなキッドの声が聞えた。心臓が跳ね上がり、鼓動が早まる。熱い血が全身を駆け巡った。とんでもない嫌がらせに、新一は大いに慌てた。
「は、離せ！」
　キッドの腕から抜け出ようと必死に抵抗するが、腕の力は緩まない。むしろ、ますます強く新一を抱き込もうとする。白いシルクハットが足元に落ちて、転がった。
「会いたかった･･･」
　痛いほどの力で抱き締められているから、新一はまともに動けない。だから、キッドがどんな表情でそんな言葉を吐いているか分からなかった。前回対決したのは、ほんの一ヶ月前の話だ。こんな、何年も会っていないような感動の再会を演出されるほどの時間ではない。
　なのに、切なく抱き締めてくる腕と、搾り出されるような声と、触れている場所から侵蝕してくる熱に、苦しくなる。
「ずっと、ずっと、この日を待ってたんだ･･･」
　新一には意味が分からなかった。怪盗は何か勘違いをしているのだろうかと思い至る。もし、そうならば、キッドの腕を受け入れている場合ではない。誤解は正さなければならない。第一、こんな恥ずかしい体勢では、落ち着いて話をする事も出来ない。
「お前、何言ってんだよ。訳分かんねえ。とにかく、離せ、怪盗キッド！」
　混乱と意味不明の言葉に対する苛立ちに任せて、キッドの脛を蹴り上げた。僅かに腕の力が緩んだ隙を逃さず、新一は何とかキッドの拘束から抜け出し、距離を取る。
　白いスーツの一箇所、新一が蹴った場所が汚れている。加減した蹴りではなかったので、それなりに痛い筈だが身体的な痛みよりも、新一が逃げ出した事実にキッドは傷ついたようだった。
「しんいち？」
　今夜のキッドは、完全にポーカーフェイスを捨てていた。戸惑うような、捨てられた仔犬のような瞳で、新一を見つめている。何も言わずに無茶な事を仕掛けているのはキッドなのに、その哀しそうな瞳に、新一は訳の分からない罪悪感に苛まれた。感じる必要もない不可解な感情を払拭するように、怒鳴りつけた。
「気安く人の名前を呼ぶな！　お前に、〝新一〟呼ばわりされる謂れはない！」
　乱暴な言葉を叩きつけながら、キッドに抱き締められて早くなった鼓動を治めようと、必死に息を整える。触れ合った場所から感じたキッドの熱に侵蝕されて、思考がまともに働かない。
「まだ、ダメなのか？　それとも、あれは･･･」
　呆然と呟きながら、キッドが再び新一に近づこうとする。
「来るな！」
　その強い腕に抱き締められるのを恐れて、新一は詰められた距離だけ後ずさる。キッドの抱擁が嫌なのではなかった。抱き締められて嫌悪を感じなかった自分自身が、今夜のキッドのわけの分からない勢いに流されてしまいそうな自分自身が、新一は恐ろしかった。
「しんいち･･･」
　切なく名前を呼ばれる。殊勝げな表情とは裏腹に、キッドは新一の制止も聞かずに近づくのを止めなかった。後ずさろうとして、新一は既に自分が屋根の端に追い詰められている事に気づいた。
「来るな、キッド！」
　叫んだ瞬間、突風に煽られた。
（2006.12.29初出　2010.06.17再掲）

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