おやくそく3

おやくそく
3

　あの時、怪盗キッドに追いつめられ機械室の陸屋根の端から足を踏み外し、新一は屋上に落ちた筈だった。高さにして、約三メートル。しかし、その僅かな落下の間にどんな作用が働いたものか、新一は時間の狭間に陥り、過去の世界に投げ出された。
　新一は快斗に頼んで買ってきてもらった新聞の日付に目をやり、腹の底から深い溜息をついた。
　新一が今いるのは、あの時からちょうど11年前だった。
「しんぶんよんで、何ため息ついてんだ、しんいち？」
　快斗が可愛らしく小首を傾げて聞いてくる。何が気に入ったのか、快斗は新一から離れなかった。
　快斗から名前を聞かれて、フルネームではなく下の名前だけ教えた。念のための用心だった。過去の世界であるこの場所で、不用意な事はできない。自分がいた時代にどんな影響があるかも分からないからだ。だから、本当は、本名など口にするべきではないと分かっていた。しかし、澱みなく真直ぐ見つめてくる快斗の瞳が、新一が嘘を言うのを許さなかった。尤も、『新一』などという名前はありふれているし、子供の頃の記憶などすぐに曖昧になる。問題はないだろう。
　一番の問題は、どうやって元の時代に戻るかという事だった。大体、原因も分からないのに戻る方法があるのだろうか。マイナス思考に滅入りそうになる気持ちを叱咤する。どんな事でも、諦めればそこで全てが終わりだという事を、新一は経験上知っていた。諦めなければ、僅かな希望は繋がり、可能性は残るのだ。新一が小学一年生の身体から元の高校生の身体に戻れたのも、決して挫けずに諦めなかったからだ。
　気分を変えたくて、新一は何故か自分に懐いている子供に目を向けた。
「快斗、もう一つ頼まれてくれるか？」
「うん、いいよ。何でも言ってくれよ」
「缶コーヒー、買ってきてくれないか？」
「わかった」
　11年の間に紙幣の変更はあったが、硬貨の大幅な変更がなかったのは幸いだった。一応、小銭の製造年月日を確認する。この11年前の世界で不用意に未来の小銭を流通させれば、現代のオーパーツと騒がれかねない。新聞を買ってきてもらった時と同様に、新一が使っても問題のない小銭を渡すと、快斗は仔犬のように駆け出した。公園を出る前にくるりと振り向いて、立ち止まる。
「ここでまってろよ。どこにも行くなよ、しんいち」
「ああ、分かってる」
　片手を上げて応えてやる。快斗は小学一年生だという。話をしてみて分かったのは、快斗は非常に頭のいい子供だった。思考の回転が速い。大人から見たら、江戸川コナンはこんな感じに映っていたのだろうかと、不思議な感慨に捕らわれる。でも、きっと中身が高校生だったコナンは、もっと小生意気だったに違いない。
　快斗には、新一が未来から来たと思われるという胡散臭い事実は、勿論言ってない。快斗が勝手に勘違いしたように、マジックの練習をしていた事にした。トリックの種を聞かれたが、それは企業秘密だと言って誤魔化した。
　快斗の父親は、プロの奇術師であるという。明日、例の高層ビルに入っているレストランでディナーショーを行う。快斗はその打ち合わせにくっついてきて、何度かあのビルを訪れ、屋上に入っていたらしい。今日は打ち合わせについてきたわけではなく、本当に天気が良くて高い場所から空を見上げたかったから、あの屋上に入り込んだという。
「お姉さんにはおこられちゃったけど、でも、おかげでしんいちに会えた」
　父親が奇術師の影響で、快斗もマジックを嗜むらしい。新一が行ったと思われている出現マジックは、いたく少年の心を捉えたようだ。
　マジックの使い手というと、また白い影を思い出しそうになって、新一は面白い気分ではなかったが、マジックが大好きな少年の前で「マジックなんて嫌いだ」などという大人げない事は口にできないぐらいの分別はあった。快斗からなされるマジックに関する質問は、曖昧に笑って全て誤魔化した。
　快斗は新一を呼び捨てにする。どうやらそれが、彼にとって親愛の情を示しているらしい。目上の人間に対してそれはどうかとも思うが、今の新一にそれを注意する気力もないし、何より快斗独特の空気なのか嫌な感じがしないので、そのまま呼ばせていた。
　まずは情報収集と、新一は公園のベンチで新聞を広げた。少々オヤジくさいかなとも思ったが、気にしない事にした。
　今までに過去の事件や新聞には多少目を通しているが、いかな新一といえども勿論全てを覚えているわけではない。政治面、経済面、スポーツ面と流し読みをしながら、社会面の小さな記事に釘付けになる。
　国際指名手配されている窃盗犯が、またも予告状を出したという内容の記事だった。
　まだこの時代は新一の父優作が、彼の怪盗に通称を名づけたばかりで世間的には広く浸透していなかった。キッドという表記はなかったが、怪盗1412号と言えば、彼しかいない。
　八年という空白期間を経て、新一の時代に活動を再開した怪盗キッド。新一は過去活躍したキッドと、自分が今現在対決しているキッドが別人である事を確信していた。だから、この新聞に載っている怪盗は、区別をつけるとするなら初代のキッドという事になるだろう。
　怪盗の白い姿を思い出し、そのまま自分を抱き締めてきた強い腕まで思い出してしまい、新一は一人顔を赤くした。そんな場合ではないと、頭を振り、雑念を追い払う。
　新聞には予告状の内容は載っていなかったが、窃盗犯が狙う宝石が展示されている宝石店の場所は載っていた。住所を確かめ、新一は頭の中に地図を思い浮かべる。この辺りは開発されているが、11年後と比べて、あの高層ビルを中心として大きな区画整理はなかった筈だ。予告状の内容が分からないから、これは推理とも呼べないただの勘だが、多分、怪盗キッドの逃走経路の中継地点に、例の高層ビルが当たる筈だ。

　11年後の今日の夜、新一が待ち伏せをした時のように。

　多分、過去と現在の怪盗が同じ逃走経路を選んだのは、ただの偶然だろう。しかし、それこそが、新一が落ちた時間の罠ならば、全く同じ状況を作り出す必然がある筈だ。そこに、新一が元の時代に戻る方法があるに違いない。
　新一は自分の腕時計に目を落とした。デジタルも嫌いではないが、アナログ式も好きだった。時計の中の長針と短針は止まっていた。
　11時55分。
　恐らく、それは新一が、この世界に落ちた時間だ。交換したばかりなので、電池切れの可能性はない。落ちた衝撃で壊れたのだろう。
　よく映画や小説だと、タイムスリップした場合、同じ時間に同じ状況を作り出せば、元の世界に戻れる展開が多い。そんな安易な発想が新一の場合にも当てはまるかどうかは分からないが、少なくとも試してみる価値はあるだろう。というか、他にいい案も思いつかない。方向性が決まれば、後はそれに向けて準備するのみである。今、うまくいかなかった場合を想定して、あれこれ悩んでも仕方がない。
　新一が顔を上げると、ちょうど快斗が戻ってきたところだった。
「はい、買ってきたよ」
「サンキュ」
　新一は缶コーヒーを受け取り、早速口につける。新一は眉を顰めた。
「どうかした、しんいち？」
「いや、何でもねえ」
　頼む時に、無糖と言うのを忘れていた事を少しだけ後悔した。
「ん？　何だ、快斗？」
　コーヒーを飲む自分を見つめる視線に顔を向けると、その先で快斗が笑いを抑えた表情で瞳を輝かせていた。子供が何か悪戯を考えている顔だ。
「なあ、しんいち、ここ見て、ここ」
　新一の言葉を受けて、待ってましたとばかりに快斗は右手を突き出した。
「？　何だよ？」
　今後の方向性も決まり、少し気持ちの軽くなった新一は機嫌よく快斗の要望に付き合った。拳を握り締めた小さな手をよく見ようと顔を近づけた。
　ポン☆
　新一の目の前で小さな破裂音と煙が弾けた後には、快斗の手に赤い薔薇が握られていた。
「へえ、すごいな、お前」
　子供ながら鮮やかな手並みに、新一は素直に感心した。
「本当にマジックが好きなんだな、快斗は」
　そう言って新一が笑顔を向けると、快斗はくすぐったそうに身体を揺らして照れ笑いを浮かべた。
「はい、これやるよ」
　マジックで出した赤い薔薇を、快斗は新一に差し出した。
「オレが貰っていいのか」
「うん。しんいち、キレイだから」
「き、きれい？」
　小学一年生に綺麗と言われて、新一の顔が引きつった。しかし、快斗は気づかずに無邪気な笑顔を見せている。
「うん、しんいちはキレイだ。オヤジに言われたんだ。人にはじめて会ったときは、相手の目を見ろって。目がキレイな人にわるい人はいないって。それと、気に入った相手には花をあげろってさ。キレイな花をきらいな人はいないから、みんなよろこんでくれるからって」
　奇術師というのは、気障な人種しかなれないものなどだろうかと、新一はひきつった笑いの下で密かに思った。
　快斗は改めて、新一に薔薇を差し出した。
「しんいちの目はキレイだ。オレ、すっげー好きだよ。だから、これやるよ」
「あ、ありがとう」
　子供の無邪気なプレゼントを無下に断る事も出来ず、新一は小さな手から赤い薔薇を受け取った。
　気づけば、太陽も大分傾いていた。
　新一は、快斗から得る事が出来そうな情報は全て聞き出した。
　意外だったのは、快斗が怪盗1412号こと怪盗キッドをあまり好きではない事だった。マジック好きならば、当然、マジックの使い手であるキッドの事も好きかと思ったのだが、彼にとって最高のマジシャンは父親だという。
「オレはいつかオヤジみたいなすっごいマジシャンになるんだ。ドロボウなんて知らないね！」
　夕陽に向かって力いっぱい叫ぶ少年に、新一は苦笑する。快斗はくるりと振り向いて、ベンチに座る新一に駆け寄った。
「なあ、オレもオヤジみたいに、いつかマジックショーをするからさ、そしたら、しんいち見に来てよ」
「ああ、楽しみにしてるぜ」
　新一はわざとらしく、動かない腕時計を見た。
「おっと、そろそろオレも行かないといけない。暗くなるから、お前も家に帰れよ、快斗」
「えー、まだしんいちといっしょにいたい」
「ダメだ。子供は家に帰る時間だ」
　口を尖らす快斗の額を指で弾いた。
「ちぇ。･･････なあ、明日も会えるか？」
　会えなければ帰らないと駄々をこねそうな勢いが、透けて見える。明日の約束など、新一には出来ない。新一が答えないと、快斗は尚も言い募る。
「明日、オレ、オヤジのディナーショーについていくんだ。ショーが終わったら、あのビルの屋上に行くから、またあそこに来てよ。いいだろ？」
　新一は快斗の頭を撫でた。
「分かった。明日、あの屋上で会おう」
「うん。男と男の約束だぜ、しんいち」
「ああ、約束だ、快斗」
　新一はにっこりと綺麗に笑って、嘘をついた。

（2006.12.29初出　2010.06.18再掲）

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