おやくそく4

おやくそく
4

　あの時と似た月が夜空を彩っていた。
　23時30分。
　夜を滑空して、白い影は高層ビルの屋上へ舞い降りた。たとえ、観客がいなかったとしても、怪盗は優雅な立ち振る舞いを忘れなかった。マントを翻す動作一つ取っても、気障ったらしく様になっていた。
「そこに居る人、出てきたら如何ですか？」
　白い怪盗が朗々たる声で呼びかける。それに応えて、靴音を響かせ、空調機械室の影から月明かりの下に一人の人物が歩み出た。工藤新一だった。
　この時代の怪盗キッドと対峙する。
「貴方は？」
「ただの探偵だ」
「ほう？　しかし、ただの探偵がこの私を待ち伏せできるとは思えない。さぞや名のある方とお見受けするが、お名前を聞かせていただくわけにはいきませんかな？」
「怪盗に名乗る名前は、生憎と持ち合わせていない」
「これは手厳しい」
　キッドが面白そうに笑い声を立てた。
　本当は、新一は姿を現すつもりはなかった。しかし、気づかれたなら、隠れているのは性に合わなかった。相手が怪盗ならば尚更だった。
　快斗と別れた後、新一は一旦高層ビルに戻った。中に入っているレストランやバーの営業時間を確認して、潜り込んでも問題のなさそうな時間を確認する。褒められたものではないが、探偵の捜査方法として不法侵入は何度も経験していた。新一はビルの従業員に気づかれずに、侵入する事に成功した。そして、快斗に教えてもらった手を使い、屋上へ続く扉の鍵を開けて、新一は隠れていたのだ。
　何か考えがあった訳ではない。ただ、同じ時間に、同じ場所で、同じ人間がいる状況を作り出したかっただけだった。今のところ、新一の目論みは成功している。
　近くの高層ビルに取り付けられている広告を兼ねた巨大デジタル時計が、問題の時間までの時を刻んでいるのが見える。
　まだ少し時間に余裕があった。新一の中に、探偵としての単純な興味が沸き起こった。過去に干渉してはいけないと分かっていたが、目の前の魅力的な誘惑に勝てなかった。

　この世界の怪盗キッドと、対決してみたかった。

　新一は、待つ間に飲んでいたコーヒーの空き缶を宙に放った。落下してきたそれを、何も言わずに怪盗キッドへ向けてサッカーボールよろしく殺人的な脚力で蹴りつけた。打ち出された空き缶は弾丸のように怪盗を目指す。
「おや、これは随分と足癖の悪い探偵さんだ」
　怪盗キッドは余裕の笑みを浮かべ、ひょいと紙一重の動きで空き缶を避けた。その間に、新一はダッシュして、怪盗との距離を詰める。
　捕まえようと伸ばした右腕を、キッドにあっさり取られてしまった。逆に背中に捻り上げられ、引き寄せられた。
「この、離せ！」
　新一はもがいたが、キッドの手際のいい右手は新一の両腕をまとめて掴み背中に捻り上げていた。左腕に抱えられるように上半身を押さえられ、身動きが出来ない。
「ふむ」
　怪訝そうな声が聞えて、白い手袋に包まれた左手に顎を掬われた。キッドに向けるように角度を変えられ、間近で顔を覗き込まれた。至近距離に、思わず新一は眼を逸らしそうになったが、チャンスだと思い直して視線を怪盗へ戻した。
　例の片眼鏡に隠れているが、いつもの新一が相手にしているキッドよりも年上で、口髭をたくわえ、身長も高く感じられた。変装の名人の怪盗キッドなのだから、これが素顔である保障はないが、それでも、新一は今の目の前にいるキッドは自分の知っているキッドとは別人だと確信していた。
「締め切り間際だというのに、我がライバル殿が現場に足を運んでくれたのかと思ったのだが違うようだ。だが、何だろう。君の顔には見覚えがあるな」
　父工藤優作と、以前に活動していた怪盗キッドには浅からぬ因縁があるらしい事は、新一も知っていた。実際に顔をあわせた事があるのなら、息子である新一の顔に優作の面影を見出し、見覚えを感じるのも仕方ないだろう。
「いいから、離しやがれ！」
　蹴りを繰り出そうとしたが、すかさず足を間に入れられ、目的を果たせない。新一の知っているキッドよりも一枚上手のようだ。新一の知らない怪盗キッドの腕の中でもがいていると、幼い声が飛んできた。
「しんいちをはなせ！」
　聞き覚えのある子供の声に、新一は慌てて声のした方角に顔を向けた。
　扉の所に、快斗が立っていた。小さな足を踏ん張り、お手製と思われるパチンコに石をつがえてキッドを狙っている。昼間、新一は彼に怪盗キッドや、今回の予告について何度も質問した。たったそれだけで、この聡い子供は新一が怪盗キッドと対決する行動を取ると予測したのだろう。だからといって、小学生がこんな夜遅くに家を抜け出してくるんじゃない、と江戸川コナン時代の自分の所業は棚に上げて、新一は心の中で頭を抱えた。
　怪盗キッドは昔から人を傷つけないと言われている。だから、キッドが新一や快斗に直接的に危害を加える可能性は低いが、それでも、彼は犯罪者であり、ここは犯罪者との対決の場所である。不可抗力の事故を含めて、どんな危険があるか分からない。
「快斗、このバカ、何で来た！」
「しんいち、今たすけるからね」
　勇敢な子供は、新一を助ける気満々だった。新一が家に帰れと叫んでも聞く耳を持たない。
「･･･快斗？･･････しんいち？･･･」
　耳元で怪訝そうな呟きが聞えた。キッドが改めて新一の顔を覗き込んでくる。
「まさか、いや、しかし」
　怪盗は、目の前の状況を確認するように新一と快斗を何度も見比べた。
「･･････そう考えると納得はできる。が、飛躍しすぎのような。･･････だが、そうであれば、非常に面白い」
　キッドはぶつぶつと呟いて、もう一度、新一の顔をじっくりと見つめてきた。その瞳は、父優作のように全てを見透かすような深い彩をしていた。居たたまれなくなって、新一は眼を逸らす。
「教えてくれるかな、探偵君。君のご両親はもしかしたら、聡明なる小説家と麗しい元女優、ではないのかな」
「答えたくねえ」
　新一の正体を正確に言い当てた質問に、新一は内心呆れる。この男は、どれだけ突飛で柔軟な思考の持ち主なのだろうか。そうでなければ、怪盗などという奇特な商売は出来ないのだろうか。
　憮然とした新一の返事に、怪盗キッドは楽しそうな笑い声を立てた。自らのあり得ない妄想に近い推測を、肯定したらしい。
「これはこれは。現実とは、なんと夢と不思議に満ちていることか。私が見せる幻など、その面白さ、美しさの足元にも及ばない」
　上機嫌なキッドとは対照的に、新一はますます仏頂面になる。被害妄想に近いとは思うが、何となくバカにされているような気がする。
　二人だけが共有する秘密に、幼い声が割り込んできた。
「こら、ドロボウ！　しんいちをはなせ！」
　新一達から見れば、緊迫感の欠片もない状況だ。しかし、快斗は真剣そのものである。パチンコを油断なく構えて、キッドを威嚇している。
「ふむ」
　キッドが新一を離さないまま、何事か考え込む。その声の調子、瞳の輝きからろくでもない事であるのは明らかだった。
「しんいちをはなせ！」
　快斗がパチンコを構えたまま、じりじりと距離を詰めてくる。
　キッドは口角を上げて悪役よろしく皮肉な笑みを刻むと、快斗に見せつけるように、新一の顎を掴んで唇を寄せた。
「お、おい、何を」
　戸惑う新一に、怪盗キッドは綺麗にウィンクをしてみせた。悪戯好きの子供の笑顔だ。そのまま、キッドの顔が近づいて、新一の頬に唇が柔らかく触れた。
「あー！」
　快斗の悲鳴が上がる。僅かに掠めた髭がくすぐったかった。
「しんいちをはなせ！」
「返して欲しければ、腕ずくで来るがいい、少年よ」
　キッドの芝居がかった挑発に、快斗が真っ赤に怒って向かってきた。キッドは新一を捕まえたまま、それを面白そうに見ている。
　月を背景に、捕らわれた探偵と、捕らえた怪盗と、助けようと奮闘する子供。
　多少出演しているキャラクターが倒錯気味だが、気分はデパート屋上のヒーローショーだ。
　多分、キッドもそのノリで、快斗を面白半分にからかっている。何だか色々と面倒になって、新一はひきつった笑いを浮かべながら、この茶番劇を見守った。
　新一を助けるべく勇ましく駆けてきた快斗は、しかし、荒れたコンクリート面に足を取られ、二人の真ん前で盛大な音を立てて、すっ転んだ。
「･･･おい、どうすんだ、転んだぞ」
「うーん、折角の見せ場だったのに、勿体ないな。エンターティナーとしてはまだまだだな」
　何となく気が抜けて、新一とキッドは世間話モードに入っていた。
　新一は溜息をついた。元々、キッドを捕まえるのが目的ではない上に、余計な闖入者が来て、やる気は０になっていた。
「おい、キッド、手を離してくれ。あいつの所に行くから」
「おや、私を捕まえるのは諦めるのかな？」
「悪い。初めからその気はない。ちょっとあんたの実力を見てみたかったんだ。やっぱり、こっちのキッドも片手間に捕まる奴じゃないよな」
「残念。君ともいい勝負が楽しめるかと思ったのだがね」
「オレもだよ。でも、あんたのライバルはオレじゃないし、オレのライバルもあんたじゃない。そうだろう？」
「確かに」
　キッドが涼やかに笑って、拘束が解かれた。新一は、起き上がろうとしている快斗へ歩み寄った。
「おい、大丈夫か、快斗」
「あ、しんいち！」
　思い切り転んだ快斗は擦り傷だらけの顔にかまわず立ち上がると、新一を背中に庇ってキッドを睨みつけた。
「しんいちは、オレのだ」
「おい」
　子供のわけの分からない独占欲に、新一は脱力した。キッドは楽しげに肩を揺らして笑った。
「そうだな。確かに、この探偵君は君のものかもしれないな」
「あんたも何を適当な事言ってんだ」
　新一の抗議など風のように聞き流し、キッドは笑んだまま月を見上げた。
「いい夜だ。たまにはこんな楽しい夜も悪くない」
　新一は膝をついて、ハンカチで快斗の顔を拭ってやり、服についた汚れを払ってやった。
「ったく、無茶しやがって。子供はおとなしく家で寝てろっての」
「でも、オレ、しんいちを･･･」
「･･･まあ、助かったよ。ありがとな」
「うん」
　その必死の努力に免じて、新一は快斗の頭を撫でてやると、子供は満面の笑顔で喜びを表した。

「おっと、ヤベー。時間だ」
　隣のビルの巨大デジタル時計に眼をやると、あと３分で問題の時刻だった。
「行くのかね？」
　いつの間にか、キッドが隣に立っていた。新一も立ち上がる。
「ああ。うまくいくか分からないけど、試したい事があってね」
「君の世界の怪盗キッドはどんな男かね？」
「勿論、気障な奴だぜ。でも、あんたには及ばないかもしれないな」
　肩を竦めて新一が答えると、キッドはちらりと子供に視線を落としてから笑った。
「なるほど、まだまだ修行が足りないようだな」
「ところで、一つ頼みがあるんだが」
「何だね？」
「こいつを、家まで送っていってくれないか？」
「オレ、一人でかえれるからヘーキだぞ」
　新一が指差した先にいる子供は、虚勢を張っている。
「探偵が、犯罪者に頼み事とはね」
「怪盗キッドは紳士なんだろ？　女子供には優しいって聞いてるぜ」
「分かった。怪盗キッドの名に懸けて、勇敢なる少年騎士はちゃんと家に送り届けよう」
「ヘーキだってば！」
「残念ながら、子供はもう寝る時間だ」
　キッドは屈むと快斗の顔に何かを噴きつけた。白い煙を吸った快斗の瞳はすぐにとろんと焦点が合わなくなり、瞼が下がった。即効性の催眠ガスで眠らされた子供の身体を軽々とキッドは抱え上げる。
「彼が起きていると、君は帰りづらいだろう？」
「まあね。でも、寝かせちまって、そいつの家が分かるのかよ」
「持続性のないガスでね。君が帰った後に起こして家を聞き出すとしよう」
「まあ、よろしく頼むわ。短い間だけど、そいつには色々世話になったからな」
　体のいいパシリに使ったと言わないでもない。
　新一はキッドの腕の中で、すやすやと寝息を立てている擦り傷だらけの顔を覗き込んだ。柔らかな頬を軽くつついた。
「じゃあな、快斗。二度と会う事はないと思うけど、元気でな」
「さて、それはどうかな」
　キッドの小さな呟きは、新一の耳には届かなかった。

　月の夜に出会った不思議な探偵は、高層ビルの屋上から忽然と姿を消した。備え付けの梯子を伝って空調機械室の上に登った彼は、時間を見計らい陸屋根から飛び降りた。
　彼が陸屋根を蹴った時、突風が吹いた。一瞬、眼を覆ったキッドが顔を上げた時には、探偵の姿は消え失せていた。
　彼の言う自分の世界に帰れたのだろう。それとも、全ては月が見せた一夜の幻か。
「夢か現か。しがない人の身であれば、時を操る神の悪戯な御心なぞ知るべくもない」
　ちらりと屋上の隅に転がるコーヒーの空き缶に眼をやってから、怪盗は腕の中で安らかに眠っている子供に視線を落とす。
「･･･どうするか迷っていたが、どうやらお前にも心躍る豊かな時間を共有するライバルがいるようだ。ならば、この白い衣装と我が罪をお前に遺そう」
　夜を見上げる怪盗のシルエットが、月光に冴え冴えと浮かび上がる。
「しかし、よりによって私の〝兄〟とはね。我々の因縁も業深き事だ。それに、随分気に入っているようだが、あの彼はなかなか手強そうだ。頑張れよ、我が息子よ」
　白い怪盗は楽しそうに咽喉の奥で笑って、子供を大事に抱えたまま夜の闇にその姿を翻した。

（2006.12.29初出　2010.06.19再掲）

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