Paradise Lost　1

　 廊下の窓の外では、新緑の葉が風に揺られながら午後の太陽の光を反射している。工藤はガラス越しの瑞々しい緑に、眩しそうに目を細めた。
「工藤先生！」
　たった今授業を終えたばかりの教室から、少女達が飛び出してくる。廊下を清掃中の用務員を押しのけて、制服のスカートを翻し、数名の少女達が工藤を目指して駆け寄ってきた。
「先生、工藤先生の下の名前って、新一って言うんでしょ」
「工藤新一って言ったら、あの有名な探偵の工藤新一と一緒だわ」
「先生は、探偵なんでしょ。この学園には事件の捜査で来たの？」
　少女達が期待と好奇心に瞳を輝かせて、工藤を見ている。
　洲礼学園は比較的富裕層出身者が通う女子校と言われていたが、今時の女子高生に変わりはなく、少女達は小鳥のように賑やかだった。
　工藤は苦笑して窘める。
「こら、先生を呼び捨てにするんじゃない」
「えー、いいでしょ、そんなの」
「小さい事にこだわらないでよ」
「ダメだ」
　ブーイングを無視して、工藤は少女達の包囲網から抜け出した。歩き出した工藤の後を、少女達が小走りについてくる。
「待ってよ。だから、教えてよ。工藤先生は探偵の工藤新一なんでしょ」
「さあ、どうかな」
「ごまかさないでよ」
「いいじゃない、教えてよー。何かの事件でこの学園に来たんでしょ？　もう犯人は分かっているの？　犯人はこの学校の生徒なの？」
「確かに、僕の名前は工藤新一だ。僕がここにいるのは、教育実習の為だよ。それ以上でも、それ以下でもない。だから、僕が言うべき事はただ一つ」
　工藤は足を止めて、少女達をぐるりと見渡した。一度沈黙する事で、周囲の意識を自分に集中させる。少女達は工藤が何を言うのか聞き逃すまいと、口を噤む。ついさっきまでの喧噪が嘘のように静まりかえった。
「宿題を忘れないように」
　工藤の言葉に、少女達が一斉に頬を膨らませた。
「こんな時に宿題を持ち出さないでよ」
「んもう、意地悪なんだから。教えてくれたっていいじゃない、ケチ」
　工藤の返事が期待できないと悟ると、少女達はすぐに次の攻撃に移行した。
「じゃあさあ、事件の話じゃなくて、別の話ならいいでしょ」
　少女達は目配せして確認を取ると、再び工藤に顔を向けて、質問をぶつけてきた。
「彼女はいるの、工藤先生？」
「当然、いるよね。工藤先生、かっこいいもの」
　返事はなくても、少女達は諦めずに工藤の後をぞろぞろとついてくる。まるで、ハーメルンの笛吹だなと、工藤は内心で肩を竦めた。
「ねえねえ、先生の彼女って、どんな人？」
「綺麗な人？　可愛い人？　年上？　年下？」
「残念ながら、いないよ」
「えー、本当？」
「じゃあ、私、立候補するー！」
「気持ちは嬉しいけど、今は募集していないから。それよりも、学生の本分は勉強だ。余計な事に気を取られてないで、勉強に集中して下さい」
「ヤダ、そんな先生みたいな事、言わないでよ」
「僕は実習生だけど、先生だよ」
「未来の先生かもしれないけど、まだ見習いじゃない。堅い事言わないでよ」
「そうそう。ねえ、じゃあさ、工藤先生、彼女はいなくても、好きな人はいるよね？」
「そっか、そうだよね。彼女はいなくても、好きな人ぐらいいるよね。先生の好きなタイプって、どんなタイプ？　それぐらい教えてよ」
　少女達が口々に囀っている。悪気はないのは分かっている。彼女達にあるのは、ただの好奇心。それは時として、悪意よりも始末が悪い。
「ねえねえ、工藤先生、好きな人教えてよ」
「いないよ、そんな人」
「えー、嘘ばっかりぃ」
「でも、そうなら、私、本当に彼女に立候補しちゃうからね」
「なら、私も！」
「私だって！」
　好きな人を質問されて、咄嗟に浮かんだ顔を打ち消すために出た工藤の言葉が、思わぬ一石になった。それは、水面を揺らすように少女達に広がり、波紋を呼んだ。呼んだ波紋はしばらく消えそうもない。
　口々に彼女候補に立候補する少女達を、工藤は再び窘める。
「だから、さっきも言ったけど、彼女の募集はしてないから」
「えーっ」
「それと、これもさっき言ったけど、宿題をちゃんとやってくるように。明日当てるからね」
「えーっ」
　尚も言い募ろうとする少女達の非難を、後ろ手に閉めた職員室の扉で遮った。会話内容は違えど、ここ数日の恒例行事と化した光景だった。


（2009.05.04初出　2018.07.02再掲）

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