Paradise Lost9

Paradise Lost　9

「『待っている』
そう伝えて欲しいと言われました」
　渚が顔を歪めた。
「『待っている』ですって？　私は連続殺人犯ですよ。何人殺したと思っているのですか。許されるわけないじゃないですか。裁判で死刑になるに決まっています」
　激高する渚とは対照的に、工藤は静かに口を開いた。
「百合子さんは全て承知しています。それでも、百合子さんは待っていると、貴女にそう伝えて欲しいと言っていました。それが約束だから、と」

　約束の場所で、ずっと待ち続けると。

「馬鹿げています」
　渚は嘲笑しようとして失敗した。唇を噛みしめて、瞳から溢れそうな涙を堪えた。
「百合子さんは言っていました。連続殺人犯の八島渚という人は知らない、と。自分が知っているのは、優しくて泣き虫の八島渚だけだと」
　堪えようとして閉じた目蓋から、涙は溢れた。一度溢れてしまえば止まる事を忘れたように、渚の瞳から、後から後から涙が零れ落ちる。
「高校生の時の約束を忘れずにいるなんて、それを信じているなんて、そんなの馬鹿みたいです」
　信じていた親戚達に裏切られ、取り返しのつかない犯罪に走った渚にとって、百合子の言葉は愚かな綺麗事にしか聞こえないだろう。
　工藤はぼろぼろの小さな鍵を見つめた。百合子は大事にその鍵を持っていた。その鍵を見つめる時の百合子の瞳はとても優しかった。
「でも、信じるという事はそういう事なのかもしれませんね。貴女はご自分には何もないと言いますが、でも、貴女には約束を交わした相手がいます。貴女と交わした約束を信じ続け、大切に胸にしまっている人がいます」
「･･････貴方は本当に酷い人ね、探偵さん」
　渚が涙を拭いて、硝子越しの工藤を見た。
「お金の為に両親を殺した親戚達を許す気はありませんし、彼らを殺した事を後悔もしていません。今でも、親戚達に対して謝罪の気持ちもなければ、罪悪感もありませんわ。でも、」
　工藤のハンカチの上に置かれた鍵に、渚は視線を落とした。それは遠い約束の形。
「人を殺した事で、彼女との約束を果たせなくなった事は、とても悲しく思います」
　小さな鍵には、彼女達の宝物のような学生の日々が詰まっている。
　瞳からまた新たな涙が零れ、一緒になって溢れ出した感情を、渚は血を吐くように吐き捨てた。
「･･･人なんて、殺さなければよかったっ」
　彼女は犯した罪のために、楽園に戻る資格を永遠に失った。
　工藤が見つめる硝子板に隔てられた向こう側で、渚の嗚咽が止まる事はなかった。

　工藤が教育実習を終えて二週間ぶりに自宅に戻ると、鍵が開いていた。昔は幼馴染が合い鍵を持っていたが、それは高校卒業時に彼女から返されていた。
　今、合い鍵を持っているのは、黒羽快斗である。怪盗キッドでもある彼は、鍵など必要としないだろう事は多分に想像に難くないし、実際にそうだった。なら何故合い鍵を渡したかというと、探偵として不法侵入を許すよりは、合い鍵を使って入られた方がまだ精神衛生上マシだったから。
「お帰り、工藤」
「ただいま」
「メシ食べるだろ？　もうすぐ出来るところだぜ」
「ああ、サンキュ。でも、その前に」
「コーヒー、だろ。分かってるよ。良い豆が手に入ったから、美味いの淹れてやるよ」
　今日帰るとは、工藤は一言も黒羽に連絡していない。なのに、見計らったようなタイミングで食事までできているあたり、一度色々問い詰めた方がいいだろう。そう心の中でメモをしながら、コーヒーと夕食のために、ひとまず疑問は横においておく。
　自室に戻って着替えながら、工藤は大きく息を吐いた。
　教育実習は何とか問題なく終わった。不祥事も余計な騒ぎも起きなかった事に対して、厳格な学園長は工藤を労った。
「それで、貴方の目的は果たせたのですか？」
「はい。ありがとうございました」
　最初、殺人犯として逮捕された八島渚について、工藤が洲礼学園に話を聞きに行った時は門前払いだった。それまでにさんざんマスコミ等の取材が来て、迷惑を被っていたらしい。それでも諦めずに通った結果、学園長との面会が許された。
　工藤は八島渚の現在の状況を説明し、彼女の学生時代の話を聞かせてほしいと頼んだ。探偵としての仕事からは逸脱しているかもしれないが、「自分には何もない」と言う、彼女の全てを諦めた双眸を放っておく事ができなかった。
　人としての心を取り戻す事が、どれほど残酷な事か分かっている。しかし、それでも、工藤は、渚に人として罪を償ってほしかった。
　工藤の話を聞き終えた後の、学園長の見解としては、卒業生が殺人犯だったという醜聞をこれ以上広げたくないというものだった。しかし、彼女は工藤の話を無下に断る事もなかった。妥協点として、教育実習生という形で学園に出入りする事を許された。勿論、現在の学生達に何のために来たのか、決して知られないようにというのが大前提だった。表面上は事務的に工藤に接していたが、結果的には八島渚の同級生だった榊百合子を工藤の指導教諭にしてくれるなど、学園長はかなり便宜を図ってくれた。後日、当の榊から聞いたところによると、学園長はかつて榊と渚の担任の教師だったという。
「工藤？」
「わっ」
　自分の思考に深く沈んでいて、工藤は黒羽が部屋に入って来た事に気づかなかった。
「何だよ、黒羽、驚かすなよ」
「いや、コーヒー出来たよって言いにきたんだけど。随分着替えに時間がかかっているようだけど、手伝おうか？」
「バーロー、何を言ってやがる」
　ほぼ着替えは終わっていた。クローゼットの扉を閉めて、部屋を出る。黒羽も後をついてくる。
「工藤、しばらくは家にいられるのか？」
「ああ、大学もあるしな」
「それと、事件がなければ、だろ？」
「ご明察。お前の方はどうなんだ？」
「似たような感じかな」
「目当てのものがなければ、か」
「そゆこと」
　他愛のない会話、穏やかな時間、傍にいる黒羽。
　ピンクのエプロン姿の黒羽が工藤の横をすり抜けて、先に行く。
「･･･帰る場所があるっていうのは、いいもんだな」
「ん？　工藤、何か言ったか？」
「いや、別に」
　黒羽が慣れた手つきで、工藤のカップにコーヒーを注いでいる。暖かな湯気と豊かなコーヒーの匂いが、部屋に広がる。
　多分、ここが、かけがえのない場所。
　工藤は、小さく笑って席に着いた。
終　

（2009.05.04初出　2019.3.17再掲）

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