Paradise Lost8

Paradise Lost　8

「私には何もありませんから」
　だから後悔はないと、連続殺人の現場となった屋敷で彼女の罪を暴いた時と同じように、面会に訪れた工藤の前で彼女は穏やかに微笑んだ。
　豪華な家具の並ぶ広大な屋敷でも、殺風景な拘置所の狭い面会室でも彼女は何も変わらなかった。
「お金などの為に私の両親を殺し、私の命も奪おうとした非道な親戚達を殺した事に対して、私は髪の毛先ほども後悔はしていません」
　楚々とした彼女に似つかわしくなく、渚は傲然と顔を上げ、勝ち誇ってすら見える笑みを浮かべた。
　探偵と犯人。硬質な硝子板一枚で隔てられた、工藤と渚の世界は余りにも違いすぎた。
「捕まえた犯人に何のご用かしら？　私は全面自供していますし、あなたの推理で間違った箇所はありませんでしたわ」
「そうですね。推理に間違いはありません。でも、一つだけ、間違いがありました。今日、僕はそれを訂正しにきました」
　渚が怪訝そうに探偵を見つめた。
　八島渚。連続殺人犯として、先日逮捕、収監された。現在は裁判を待つ身である。
　渚は財産目当てで八島本家を乗っ取ろうとした親戚達に、両親を殺され、自身も命を狙われた。事実に気づいた時、渚は愛する両親を彼女から奪った非道な親戚達を薬物を使って、次々と殺していった。それは、彼女にとって復讐であり、自分自身を守るための正当防衛でもあった。しかし、マスコミは渚を殺人鬼としてセンセーショナルに書き立てた。低俗な週刊誌などは、渚の両親すら彼女が殺したのではないかとの、いい加減な記事を載せた。上流家庭の醜聞は、無責任な人々を喜ばせ、彼らは好奇心と野次馬根性を発揮して大いに盛り上がった。
　事件そのものは親戚達の犯行も、渚の犯行も八島家の屋敷や敷地で行われ、日が経っていた事もあり、証拠はなかった。状況証拠だけでの逮捕は難しいかと思われたが、警察の要請で捜査に乗り出した工藤新一の活躍により、新たな物的証拠と渚の自供を得て、逮捕に至った。
　しかし、工藤新一は分かっていた。自分の推理は確かに渚の逮捕のきっかけになったかもしれないが、元々彼女自身に逃げるつもりはなかったのだ。彼女は犯行を隠そうとはしていなかった。たまたま証拠が残らなかっただけで、たとえば、初めから明らかな物的証拠があり、警察がそれを指摘したなら、彼女は言い逃れなどせずに素直に逮捕に応じていただろう。むしろ、
「貴女が犯人ですか？」
　と質問すれば、恐らく彼女は「はい、そうです」と首肯しただろう。
　両親を殺され、自身の手で親戚を殺し、身よりのなくなった彼女には、自分自身に対しても周囲に対しても執着は全くなかったのだ。親戚達が犯罪に手を染めるきっかけになった八島家の莫大な財産も、渚にとって執着するべきものではなかった。むしろ、両親殺害のきっかけであり、かつては優しかった親戚達の心変わりの元凶である。そんな全ての事の発端である、財産は忌むべきものだった。
　硝子の向こうで質素な服を着る彼女は、高級な材質の服を着ていた時と何ら変わりはなかった。
　工藤は静かに切り出した。
「貴女はご自分には何もないと仰ってましたが、そんな事はありませんよ」
「つい最近会ったばかりの貴方に、私の何が分かるというのですか、探偵さん？」
　渚は冷たい微笑みを浮かべて、全てを拒絶する。
「これを」
　工藤は胸ポケットから、大事そうに白いハンカチを取り出した。
「？」
　訝しんでいる渚によく見えるように、工藤は掌の上でハンカチを開いた。
「それは…」
　開かれたハンカチの上にあったのは、古びた鍵。オモチャの鍵なのか作りはシンプルだ。
　見覚えがあるのか、渚の瞳が見開かれる。
「先日洲礼学園に行ってきました」
「え？」
　工藤の言葉に、感情のない表情を浮かべていた渚が初めて感情の揺れを見せた。
「貴女が学生時代を過ごされた場所です」
「･･････」
「そこで、僕は一人の人物にお会いしました。榊百合子先生。僕は洲礼学園に教育実習生として行ったんですが、榊先生は僕の指導教諭です」
「･･･榊･･･？･･･」
「はい。結婚されて、名前が変わりました。旧姓は近藤。近藤百合子さん、ご存じですね？」
　渚は視線を逸らし、口を閉ざす事で新一の質問を肯定した。
「約束を覚えていますか？」
「忘れました」
　背けた渚の横顔が、覚えていると答えている。
「百合子さんも覚えていました」
「･･･教師になってるなんて知りませんでした」
「卒業されてからは、お互いに忙しくて連絡を取られていなかったそうですね。ご存じないのも無理はないでしょう」
「･･････」
「百合子さんは、自分達と同じように楽しく学園生活を送っている学生達に授業をしながら、貴女はどうしているかと思い出していたそうです」
「百合子さんらしいですわ」
　学生時代を見ているのか、渚の瞳が柔らかく微笑む。
「地図をお持ちですか？」
「なくしました」
　何の地図か問う事もなく、渚は即答した。
「･･･貴女と百合子さんは、卒業式の日に約束した。『十五年後の今日、もう一度会おう』と。その時、二人それぞれ思い出の品を箱に入れ、鍵をかけ学園の敷地内に埋めた。百合子さんが箱の鍵を、貴女が埋めた場所の地図をそれぞれ持って、再会の約束をして学園を巣立っていった」
「それが、何だと言うのですか？」
「十五年目は今年でした。でも、貴女は来なかった」
「それどころじゃありませんでしたもの」
　当時の感情を思い出したのか、嘲笑すら浮かべて渚は冷たい憎悪の目で工藤を見た。
「私はその日、初めて人を殺したのですから」
「その後、一ヶ月の間に貴女は計五人の親戚の方々を殺害した」
「ええ、そうです。そして、全てが終わった後、貴方はやってきた」
「はい」
「それで、百合子さんはその鍵をどうしろと？　殺人者との思い出の品など持っていたくないと仰るなら捨ててくださってかまいませんわ。第一、私はとっくの昔に地図をなくして、約束そのものも忘れていたのですから」
「これは無理を言って、お借りしてきただけのものです。あとで百合子さんにお返しします。こういう証拠がなければ、貴女は信じてくれないかもしれないと思いまして」
　渚は怪訝そうに工藤を見た。面会室へ入ってきた時の、全てを拒絶しているような渚の表情は影を潜めていた。
「百合子さんから伝言を預かっています」

（2009.05.04初出　2019.2.17再掲）

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