夏の思い出1

Summer　Memorｙ　1

　空気は昼間の暑さを溜め込んだまま、夜を迎えていた。
　誰もが、暑さに噴き出るような汗を不快に拭っている。時折そよぐ風は、涼を運ぶどころかより暑さを感じさせる熱気の塊だった。
　絵に描いたような熱帯夜に、汗だくの有象無象の警察官が待ちかまえるそこへ、白いマントを鮮やかに翻して舞い降りた怪盗は汗一つかいていなかった。
「怪盗キッドだ！」
　誰かが叫んだ。一斉にどよめきが広がる。怪盗にとって、それは華々しいショーの始まりを告げる拍手に等しい。
　スーツにネクタイ、マントまで羽織っているのに、怪盗は冷涼な気すら纏っている。涼しげに笑む彼は、汗まみれの警察官とは別の世界の生き物のようだ。エンターティナーは常に、現実とは別の世界を体現し続けなければならない。だから、恐らく警察官達が思っている感想は正しいのだ。
　警察の厳重な警備をかいくぐり、怪盗の為だけに考えられ作られた罠を擦り抜ける。あらゆる難関を突破して、大粒のルビーが無数の小粒のダイヤに彩られた豪奢な首飾りを見事手中にした怪盗は、馴染みの警部に向けてシルクハットに手をかけて、優雅に微笑んだ。
「それでは、中森警部、この美しき『真夏の夜の夢』はいただいていきますよ」
　血管が青く浮き上がった警部の怒鳴り声をＢＧＭに、怪盗はショーの終わりを告げる煙幕と共に、幾重もの警察官の堅牢な囲いから脱出し、月の支配する夜空へと飛び立っていった。

「と、今夜の守備はこんな感じだったんだぜ」
　スーツの下からすっかりぬるくなったミニアイスノンをどさどさと大量に落としながら、窓枠に座った快斗は得意げに怪盗キッドの活躍を語った。語っている相手である部屋の主は溜息を一つ吐いて、怪盗キッド姿の快斗がこの部屋の窓に訪れてから初めて、読んでいた本から顔を上げた。
「あのなぁ、毎回言ってるけど、何で怪盗の犯行報告をわざわざ探偵のオレにするんだよ。別に頼んでもいねえし、頼む気もないぞ」
　工藤新一が睨みつけているとはいえ、その双眸に快斗の姿を捉えている。こっそりと、その事実に快斗の胸は躍った。
「いや、だって最近、名探偵、キッドの現場に来てくれねーんだもん。つまらなくてさ。張り合いがないっての？　見に来てくれないなら、折角だから、オレの華麗な活躍を聞いてもらおうかと思って」
「警察からの要請も、依頼人もいないのに、オレが専門外の泥棒の現場にのこのこ出て行くわけないだろう。厄介な事件も立て続けに起こっていたんだし」
「でも、今日は、特に事件はなかっただろ」
「探偵だって、たまには休養が必要なんだよ。頼まれもしない泥棒を追っているより、溜めちまった新刊の山を片付ける方がよっぽど重要事項だ。大体、今回は予告も暗号じゃなかったじゃねえか」
「つれないなぁ」
　きっぱりと言われて、快斗は少し落ち込む。それでも、追い返したり、無視されたりしているわけではないので、挫けている場合ではない。探偵は、怪盗は現場で捕まえるというポリシーを持っているらしく、犯行後に工藤邸に現れても捕まえる素振りも見せない。探偵との間に培った戦友めいた奇妙な信頼関係のおかげだろう。なので、快斗はここ最近、怪盗キッドの犯行後に現場に工藤新一がいなかった時は、彼の家を訪れていた。正直なところ、顔が見たかったのだ。
「健気だよな、オレ」
「あ？　何か言ったか？」
「いいえ、何も言ってません」
　気づかれないように小さく溜息をついて、スーツのポケットにある違和感に気づく。探偵の家を訪ねる言い訳に使っている用件を思い出した。
　ポケットの中身を引っ張り出す。時価数億はすると言われる首飾りが月光を弾いた。
「それはさておき、とりあえず、この宝石返しておいてくれね？　目当てのものじゃなかったから」
「だから、何で探偵を宅配便代わりに使うんだよ」
　呆れながらも毎回の事で慣れた探偵が、快斗の掌に乗った首飾りに手を伸ばす。犯罪者だ何だと言う割に、探偵はキッドに対して無防備でいる。探偵の白い指がルビーに触れた瞬間、首飾りごと探偵の手を掴んで、引き寄せた。
「キッ」
　探偵に名前を呼ばれるのは好きだ。けれど、今はそれよりも抑えられない衝動があった。夏の暑さの所為だとよく分からない言い訳を自分自身にしながら、探偵の声ごと、その唇を奪った。
「んんっ」
　柔らかな唇に咬みつくように、重ねる。初めてのキス。しかし、触れた甘さに酔いしれる間もなく、殺気を感じ、快斗は身体を翻した。一瞬前まで快斗の身体があった空間を、探偵の殺人キックが切り裂いた。
「っの野郎！　何しやがる！」
　顔を真っ赤にしながら怒鳴られても、快斗にしてみれば逆効果だ。ますます探偵に触れたくて仕方ない。
「キスはお気に召しませんか？」
　自分の口元に指を当てて、怪盗紳士の口調で澄まして言えば、探偵はますます顔を赤くする。
「何だって、キスなんかするんだよ」
「前から言っているだろ、名探偵」
　含みを持たせるように間を置くと、探偵の肩がびくりと反応した。
「好きだぜ、名探偵」
　しかし、快斗の何度目かの告白が届く前に、つれない探偵は耳を塞いで拒絶する。
「何にも聞こえねえ！」
　聞こえているのは、更に首まで真っ赤になった表情からも明らかだ。けれど、快斗も引き際を心得ている。これ以上、突いたら、照れ隠しを通り越して、本気で怒り出しかねない。さすがに、探偵を怒らせるのは本意ではない。
「残念。でも、諦めないからな。何度でも聞かせてやるよ。オレの気持ちを」
　探偵は真っ赤な顔のまま、耳を塞いで答えない。しかし、聞こえているのは分かっている。
「じゃあな、名探偵。次はまた予告の日に来るから、忘れんなよ。勿論、現場に来てくれてもいいぜ」
　我ながら気障と自覚するウインクを投げて、快斗は工藤邸の二階の窓から身を翻す。一瞬で帆を張ったマントは風を捕らえて、夜空を滑降する。
　言葉もなく見送る探偵が怪盗と触れ合った唇に指を当てている仕草を快斗が目撃していたら、問答無用で押し倒していただろう。

（2008.08.15初出　2019.04.28再掲）

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