夏の思い出2

Summer　Memorｙ　2

　グライダーで夜を滑空しながら、快斗の頬は緩みっぱなしだった。
　初めて触れた工藤の唇は柔らかくて甘くて、想像以上だった。工藤の反応も悪くなかった。本当に嫌なら、工藤は触れる事すら許さないだろう。もしくは、触れる事に成功しても、あんなに可愛らしい反応は見せてくれなかっただろう。
「おっと、いけね。忘れてた」
　手の中には工藤に返却を頼む筈だった、今夜の獲物がまだ残っていた。
　余裕のふりをしていたが、置いてくるのを忘れてしまった。これでは、初めてのキスに快斗も動揺していたのがバレバレである。
　自分の失態に苦笑しながら、宝石の返却方法について考えを巡らした。大粒のルビーが月光を弾いている。それは角度の所為か、血の色のように見えた。
　そういえば、この首飾りに予告状を出した時、クラスメートの小泉紅子が変な事を言っていたのを、今更思い出す。
　黒羽快斗のクラスメートである小泉紅子は、自称魔女である。信じがたい事ではあるが、実際にマジックでは説明できないような不可思議な現象を見せた事もあるので、頭ごなしにそんなバカなと否定できなかった。たとえば、魔法陣で人の心を操ろうしたり、箒で空を飛んだり。それらを快斗は身をもって体験し、目の前で見せつけられた。
　今回も予告状を出した時、紅子は予言が出たと快斗にいらない忠告をしてきた。

「黒羽君、今回は止めた方がよくってよ」
「だーかーら、オレは怪盗キッドじゃねえって言っているだろ！」
　これも、過去何度も繰り返している会話だ。言い方に多少問題はあるが、紅子は快斗の、怪盗キッドの心配をしてくれているのは確かだ。しかし、如何せん、内容が胡散臭すぎる。第一、紅子が根は優しい人間である事は分かっているが、怪盗キッドの正体をバラすわけにはいかない。それに、彼女曰く邪神ルシュファーの予言だか占いだかで、怪盗キッドの予告を覆すなどあってはならない。快斗は従う気はなかった。
　聞く耳を持たない快斗に、紅子は美しいラインを描く眉を寄せて、溜め息をついた。
「　“冥府彷徨う亡者の炎、形を得て白き罪人を悪夢へと誘う” 」
「は？」
「簡単に言ってあげると、そのルビーは呪われていて、あなたは取り憑かれるって言っているのよ」
「へーへー、それはご親切にどうも。オレは怪盗キッドじゃないけど、キッドのファンだからな。キッドの身を心配してくれて、礼を言うぜ。にしても、よくもそんな占いを飽きもせずにやってるよな」
「何度も言うけど、占いじゃなくて、邪神ルシュファーの予言よ。よ・げ・ん。あなたがあのルビーに手を出すならば、予言は避けようのない事実になるだけ。信じる信じないはあなたの自由よ。私は忠告はしたわよ。精々、取り殺されないように気をつけなさい」
　紅子は高飛車に言い捨てて、くるりと背中を向けた。スカートの裾が計算されたかのように翻る。なまじ端麗な顔だけに怒らせると、迫力がある。けれど、一番おっかない探偵の怒り顔を知っている快斗には免疫があった。

「呪い、ってもなぁ」
　紅子の背中を見送った時を思い出しながら、快斗はぼやいて、改めて目の前に首飾りをぶら下げる。
　鮮やかなルビーをダイヤが囲むようにデザインされた首飾り。月に翳して、ルビーが快斗の探す魔性の宝石パンドラでない事は確認済みだ。外見的に、特にこれといった不審な箇所はない。貴婦人の首を飾る宝飾品に過ぎないように見える。展示用ケースの中では、首飾りは、小さなロザリオと並べるように置かれていた。
　快斗が調べた宝石の来歴では、首飾りはヨーロッパの貴族が夫人に贈るために作らせた物らしかった。しかし、夫人は病気になり、その首飾りを身につける事なく病死。首飾りは、貴族の後添えの手に渡った。けれど、この後妻もほどなくして病死。失意の貴族は首飾りを手放したという。その後、首飾りを身につけた女性を次々と不幸な目にあったと伝えられるが、真偽のほどは定かではない。ロザリオは、これ以上の不幸が起こらないように鎮魂の儀式を執り行った、事態を憂えた神父だか牧師だかの持ち物だと言われていた。
　快斗が用があったのは、ビッグジュエルに相応しいルビーだけだったので、ロザリオは取ってこなかった。首飾りを返却すれば、また同じように展示されるだろう。
　不意に月の光が陰った。視線を巡らせると、綺麗な星空だった夜はいつの間にか湧き出した雲に覆われていた。
　風も強くなってきた。最近は地球温暖化の所為か、急に天気が極端に崩れる場合が多い。局地的豪雨になれば、グライダーで飛べなくなる。荒天の可能性を考慮して、早めに地上へ降りた方が賢明だと判断する。
　まるで、そんな快斗の考えを読んだかのように、突風が快斗のグライダーを襲った。
「うわっと」
　叩きつけてくる風に崩しかけたバランスを、何とか立て直す。その時には、手に持っていた筈の首飾りがなくなっていた。
「やべっ」
　夜の街を彩る僅かな外灯を反射して、首飾りが落ちていく。快斗は慌てて後を追って、高度を下げた。

（2008.08.15初出　2019.05.25再掲）

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