煉獄1

Purgatory 1

　月の綺麗な夜だった。
　新一は地方での事件依頼を片付けて、一週間ぶりに東都へ帰ってきた。
　満月は皓々と都会の夜を照らしている。そんな鮮やかな月を見ると、思い出す事が二つあった。一つは月下の奇術師の二つ名を持つ泥棒。もう一つは、満月の夜から始まった哀しい連続殺人事件。
　そういえば、今夜は例の怪盗の予告日だった筈だ。駅で買った新聞の社会面に一角に、その記事が載っていた。
　犯行予告日は今夜。流石に、予告状そのものの文面は載っていないが、警察が解読したらしき内容と標的の美術館の名前が書かれていた。
　既に予告時間は過ぎていた。現場は、現在新一がいる場所からそんなに遠くはなかったが、事件帰りの疲れた身体で怪盗を追う気にはなれなかった。いくら泥棒には興味がないとはいえ、怪盗キッドとは何度も対決を繰り返した因縁がある。やはり、彼を相手にするなら、用意周到な泥棒に敬意を表して、新一も下準備をして万全な態勢で対決したかった。それに、今夜に備えて時間をかけて警備態勢を整えた中森警部の指揮の下、今更新一が口を挟む余地はないだろう。
　おとなしく家に帰ろうと、改めて月を見上げた。
　いつかに似た満月は、都会の夜空にも鮮やかだった。
　その視線の先で、何かが月を横切った。一瞬ではあったけれど、怪盗キッドのハンググライダーのように見えた。素早く周囲を確認したが、空を見上げている人間はおらず、誰も気づいていないようだった。
　見えたのは本当に一瞬で、それは新一の気の所為かもしれなかった。しかし、新一の目にはグライダーは奇妙に傾き、失速寸前のように見えた。
　あのキッドが姿勢を保てないとするなら、そこには何らかの理由がある筈だ。怪盗キッドには確か、敵対する裏の組織が存在していた。警察すら掴んでいない事実だったが、新一は何度かキッドと対決を繰り返していくうちに、たまに物騒な連中が乱入する事が何回かあり、その事に気づいた。
　単に上空の風が強く、バランスを崩しただけの可能性もあった。
　しかし、探偵の性質として、気づいた事、気になった事を有耶無耶にする事が新一には出来なかった。嫌な予感もあった。
　新一は新聞をしまうと、先刻見た、キッドのグライダーと思しき影が飛び去った方向を追った。

　５階建ての雑居ビルの屋上に、グライダーは墜落に近い形で降りたようだった。周辺に、キッドの追手らしき影も、警察の姿もないようだった。新一は警戒しながら、非常階段を駆け上がった。
　狭い屋上には、ボイラーや空調、水道タンクの置かれており、一目で全体を見通す事はできなかった。
　新一は屋上を慎重に調べ始めた。程なくして、空調施設の裏側にいる男を一人発見した。
　男は空調施設に身体を預けるようにして、座っていた。若い男だった。歳は新一と同じくらいか。黒いジャケットを着た、癖毛の髪の男は無表情に新一を見上げてきた。右手はジャケットの内側に隠れている。恐らく、新一が不穏な動きを見せれば、すぐに対処できるように何かを準備しているのだろう。
　男は怪盗の白い衣装を着ていないし、グライダーも近くには見られない。男が怪盗キッドである証拠など、何もなかった。気配すらなかった。けれど、新一には何故か分かった。いや、何度も対決を繰り返してきた、好敵手である探偵だからこそ、分かった。

　彼は怪盗キッドだ。
　彼が怪盗キッドだ。

　わずかに血の匂いがする。やはり、見間違いではなく、キッドはケガをしているのだろう。
　男の表情も感情も伺えない瞳を、正面から捉えた。どこか昏い光を湛えた瞳に、新一が映っていた。
　新一は右手を差し出した。
「来いよ。ケガ、してんだろ？」
　その科白は予想外だったのか、男の瞳が驚きに見開かれた。涼しげな笑みのポーカーフェイスが売りの男に、そんな表情をさせる事ができただけで、新一は少し満足した。
「何を、言ってんだ、アンタ？」
　男が新一の真意を探るように見つめてくる。新一は右手を差し出したまま、面倒くさげに左手で頭を掻いた。正直、自分でも自分の提案に驚いていたのだが、それを気づかれたくなかった。
「ケガしてるだけで、警察に突き出したりはしねえよ。屋上への不法侵入はお互い様だしな」
　現在の状況で、男が怪盗キッドである事を指し示すものは何もない。身体検査を念入りに行えば別かもしれないが、用心深いこの男がいつまでも証拠品を持っているとも思えなかった。暗にそう言ってやると、ますます男は不思議そうな顔をした。
「何を考えてるんだ？」
「ただの気まぐれだよ」

　月があまりにも綺麗だったから。

　あの哀しい島での痛ましい事件の夜に見た月も同じように、綺麗だった。誰にも分からないそんな言葉を飲み込み、新一は改めて右手を差し出した。
「ほら、来いよ」
　言葉に促されるように、男は隠していた右手をジャケットから出して、新一の手を取った。

（2008.05.04初出　2021.05.30再掲）

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