天に祈りを3

天に祈りを
3

　夜に白いマントを鮮やかに翻し、静寂を僅かも乱さぬように、彼は目的のビルの屋上へと舞い降りた。
「何だかなー」
　グライダーをたたみながら、快斗は溜息混じりに立ち上がる。勿論、彼は観客が全くいなくても、怪盗の衣装を纏った矜持として、優雅さを決して忘れなかった。
　ビルの屋上には誰もいなかった。無防備にも程がある。一応、警察の罠の可能性も忘れていない。今日の昼間、警視庁に仕掛けておいた盗聴器から拾った音は、中森警部を始め二課の人間全員が、キッドの予告日へ向けての準備に余念がない事を示していた。

「犯行予告日の警備計画はどうなっている？」
「出来ています。機動隊の手配も済んでいます」
「警部、当日の道路封鎖に関する周辺地域への説明、終わりました」
「よおし、見ておれよ、怪盗キッド！　今度こそ、とっ捕まえて、化けの皮を剥がしてやる！」

　快斗が予告した犯行日は２月17日。
　何故か分からないが、警視庁のお馴染みの面々がカレンダーに丸印つけてまで張り切っているのは、快斗が予告した日よりも二日後だった。２月19日、それが中森警部達が認識している予告日だった。
　今回は標的の北条産業の意向で、怪盗キッドの予告について一切報道されていない。当日以外の警察の警備も断っているようだった。金の力か、報道自粛の要請も徹底されている。キッドの予告状について報道する機関は一つもなかった。
　今日は快斗が予告した17日ではあるが、警察が予告日として認識しているのは、19日。当日以外の警備は北条産業から拒否されているので、ビル周囲には通常の会社の警備員以外はいなかった。
ビル内に侵入しても、静けさは変わらなかった。
パンドラを狙う組織の罠を警戒したが、それも違うようだった。予告日を間違えたのは、相手側の勘違いである。張り合いがないからと言って、予告日をミスに合わせる義理はない。
　快斗は予定通り、今回の標的が展示されている部屋に侵入した。
　展示は、事前に入手した情報通りの配置だった。
　周囲を油断なく警戒しながら、あくまで見かけは涼しげに優雅な歩みで、オルゴールが置かれたガラスケースに近づいた。
　展示室は照明が暗くしぼられていたが、一面のガラス窓の外には夜の街の灯りが広がっていた。夜目の利く快斗には十分な光量だった。
　ガラスケースまで10メートルの所で、２・０の視力が違和感を見つけ出し、快斗は足を止めた。
　窓の外に広がる夜を背景に、ガラスケースとそれを支える円柱形の台座のシルエットが浮かび上がる。しかし、台座の下に何かあった。薄暗い展示室中央の床に、黒い塊が蟠っている。
　何があるのか目を凝らす前に、部屋の照明がつけられた。
「お待ちしていました」
　背後からの静かな声に殺気はなかった。それ以上に、驚いたのは、明るい照明の下で浮かび上がった、その黒い塊の正体だった。それは人間だった。しかも、快斗のよく知っている人物だった。
　工藤新一。
　そこには後ろ手に縛られた、探偵の工藤新一が横たわっていた。いや、横たわるというより、むしろ、荷物のように置かれていると言った方がより正しい状態だろう。明かりがついても、工藤は動かない。慌てて近寄る愚は犯さないが、素早く視線で僅かな胸の動きを確認する。呼吸はあるようだ。他には怪我をしているらしく、頭部からの出血が見えた。怪我の程度は分からないが、一応意識がないだけで、生きているようだった。気取られないように、快斗は安堵の息を吐いた。その心の動きを読んだのか、背後の声は続けた。
「工藤探偵は、まだ生きていますよ」
　まだ、という事は、いずれ殺すつもりという意思表示か。
　快斗はゆっくりと振り向いた。ドアの所に声の主が立っていた。殺気はないが、手には拳銃を持ち、銃口はキッドに向けられていた。その凶器を持つのに似つかわしくない、温和しそうな顔に見覚えがあった。今回の仕事の為に、快斗が集めた資料に載っていた男だ。専務の秘書で笠原という男だ。
「ふむ、北条産業専務秘書の貴方にお待ちいただいていたという事は、どうやら中森警部が予告日を勘違いしているのは、仕組まれたもののようですね」
　笠原は答えない。
「貴方にお願いがあって、お待ちしていました」
「私に用があるのは貴方自身ですか。それとも、そこのドアの影にいる方ですか」
「さすが怪盗キッド、大泥棒と言われるだけあるな。目端は利くようだな」
　ドアの影から、小太りの男が下卑た笑いを浮かべながら出てきた。この男の顔も資料にあった。彼が秘書笠原の上司、専務の風間だ。

（2008.10.19初出　2012.12.5再掲）

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