天に祈りを9

天に祈りを
9

　風間は自分のオフィスで、怪盗キッドが戻ってくるのを待っていた。来賓をもてなす為という名目で作ったオープンカウンターから、これも経費で落としたウィスキーをグラスに注ぐ。からんと鳴った氷の音が、風間を楽しませた。
　キッドが無事に伊勢崎のオフィスから書類を盗んでくる事を考えると、自然と頬が緩んだ。金庫には鍵がかかっているだろうが、警察の警備をかいくぐり、強力なセキュリティを突破して何度も盗みを成功させている国際指名手配の泥棒が、手引きをされていながら失敗する訳もない。理由がない。
　伊勢崎は社運を懸けた、臨海部の再開発プロジェクトの指揮を執っている。これが成功すれば、風間よりも伊勢崎は社長の椅子が近くなる。金庫にはプロジェクトに関する書類やデータもあるだろう。それに限らず、会社の機密事項を盗み出されたとあれば、伊勢崎の管理責任が問われる。プロジェクトから降ろされるだけでなく、うまくすれば、進退問題に発展するだろう。
　好都合な事に、キッドは秘書の笠原に変装して盗みに行った。この状況での外部犯は考えにくい。ヘタに外から入られては、留守を任された風間も責任を問われる。内部犯行がまず疑われ、たとえ、キッドが目撃されていたとしても、笠原の姿をしていれば、風間にとって問題はなかった。
　他の人間はそうはいかないが、笠原は風間のいいなりの人間である。風間が命令すれば、何でも従った。今回の件で笠原が犯人であるとされても、彼をスケープゴートにして、極力自分への影響がないようにする事は可能だった。秘書の監督責任を口にする者がいたとしても、自分の今の勢力を考えれば、正面切って向かってくる相手は伊勢崎以外には思い浮かばない。書類を盗まれれば、伊勢崎の方がよりダメージは大きいと言える。
　それに、笠原が捕まったとしても、たとえば、ライバル会社からのスパイだった事にしてもいい。それならば相手がより悪辣だったと主張して、風間が言い逃れる事は可能だ。何だったら、機先を制し、風間が笠原の犯行に気づいた事にして、警察に通報してもいい。自らの事よりも社会正義を優先させたとして、評価が上がるに違いない。それも悪くなかった。
　笠原は、秘書としては有能でも無能でもなかった。頭は悪くなく、それなりに役立つ提案もする事が出来たが、それ以上に彼の人となりが風間を苛立たせた。いつでもおどおどとした人を窺うような態度が、風間の癇に障っていたのは確かだった。この機会に、もっと有能な新しい人材にすげ替えるのもいい。
　無事に盗みを成功させたとしても、怪盗キッドに、勿論オルゴールを渡す気もなかった。社長自慢のコレクションは、風間が少しずつ贋物と取り替えて、売り払ってきたのだ。展示室のオルゴールは既に贋物と取り替えてあるが、本物はまだ手元にある。先日展示室に案内した取引先の人間が、あのアメシストをいたく気に入っていた。オルゴールそのものは要らないが、宝石だけが欲しいと言ってきた。風間はアメシストを譲渡するのと引き替えに、自分の担当する商談を成立させる約束を取り付けた。勿論、現所有者である社長には無断で、である。現在は、条件の細かい詰めを行っている最中だった。みすみすビジネスチャンスを、薄汚いこそ泥のためにふいにするつもりはなかった。
　怪盗キッドが戻ってきたら、睡眠薬入りの酒を飲ませるつもりだった。取引成立と称すれば、一杯くらいは飲むだろう。工藤新一にも面会した時に睡眠薬入りのコーヒーを出したが、勘づかれたのか、彼は口にしなかった。だから、殴るという原始的な力技を行使せざるを得なかったのだが。
　怪盗キッドと工藤新一は、風間の中では殺害が確定していた。
　しかし、二人が死亡する事故を偽装するのは、少々面倒である。以前に、部下の死を事故死に偽装した時も色々警察に事情聴取をされた。たかが一人の不審死でもそうだったのだから、二つも死体が出れば、警察もそれなりの捜査をするだろう。しかも、片方は警察と懇意にしている探偵である。ならば、始めから死体などない方がいい。幸いにも、行方不明になってもすぐには怪しまれない探偵と、正体不明の泥棒がいなくなっても、誰にも騒がれないに違いない。泥棒は勿論、周囲の人間に自分が泥棒をやっているなどと言ってはいないだろうから、探偵の失踪と泥棒の失踪を関連づけられる人間は皆無に等しいだろう。
「ようやく、私にも運が向いてきたようだな」
　伊勢崎が失脚すれば、次期社長候補は風間一人に絞られる。お飾りの社長など、どうとでもなる。今回の件のほとぼりが冷めたら、社長にも引退をしてもらおうと、自分の薔薇色の未来予想図にグラスを傾けながら、満足する。
　真面目に働いてきた自分に、ようやく明るい未来が開けてきた気配に、革張りのソファに身体を沈め、風間はグラスを目線に上げて前祝いをした。
　ドアがノックされた。
「入れ」
　笠原が部屋に入ってきた。書類の束やデータディスクを持っている。何より、その顔には不敵な笑みがあった。口角をつり上げ、真っ直ぐに風間に視線を向けている。風間の知っている笠原は、今まで一度も風間の顔を正面から見据えた事はない。姿形を似せる事は出来る変装の名人とはいえ、その内面まで似せる事は出来ないのだろう。平成のアルセーヌ・ルパンと言っても大した事はないなと評価しながら、風間はソファから立ち上がった。
「さすが、怪盗キッド。仕事が早いな」
「お望みの物をお持ちしましたよ、風間専務」
「ご苦労。そちらの机の上に置いてくれ」
「それでは、お約束通り、あのオルゴールをいただきましょうか」
「そう急ぐな。まずは、取引の成立に祝杯をあげようじゃないか」
　用意していた睡眠薬入りのウィスキーが入ったグラスを自然に取り上げ、風間は笠原の姿をした怪盗キッドに近づいた。
　キッドは書類を置く素振りを見せなかった。風間が怪訝そうに眉を顰める。
「どうした、キッド。そんな書類は向こうに置け。グラスが持てないだろう」
「オルゴールを持ってきて下さい」
「分かっている、分かっているさ。ちゃんとオルゴールは持ってきてやる。それよりも、とにかく書類を置いて、一息入れろ。私の酒が飲めないのか」
　風間は、断れないようにずいとグラスをキッドの前に突き出した。何を思ったのか、キッドはその場で持っていた物から手を離した。
　音を立てて、書類とディスクが風間とキッドとの間に落ちた。毛足の長い絨毯に物が散らばり、風圧で何枚かの紙が舞う。
「おい、何をしている！　キッ･･･ド？」
　舞い落ちた書類の向こうに立っている、笠原の顔をしたキッドの手には拳銃が握られていた。銃口は真っ直ぐに風間に向けられている。
「本物のオルゴールを渡してもらおう」
「わ、分かった。分かったから、銃を下ろせ」
　しかし、キッドは風間の意見を聞き入れるつもりはないらしく、逆に銃口をぐいと突きつけた。風間はグラスを持ったまま、両手を挙げた。生唾を飲み込む。
「今すぐに、オルゴールを持ってこい」
　笠原の顔をしたキッドは殺気すら纏って、低く風間に命令をした。

（2008.10.19初出　2013.02.10再掲）

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