Hide-out15

Hide-out
15

　雨の音が聞える。屋根を叩く雨音が静かに耳に染み込んでくる。山奥の静寂に、深い緑に、優しく雨が降る。
　まるで誰かが泣いているようだ。
　新一は覚醒しない頭で考える。身体が重くて起き上がる気になれなかった。熱があるようだった。瞳を開かなくても、額に濡れたタオルが乗せられているのが分かる。しかし、何故、そんな事になっているのか、記憶が曖昧で思い出せない。ただ雨音だけが聞える。
　気がつくと、右手に何かが触れていた。指先に絡んできた温かい何かが、新一の右手を包んでくる。
「ごめんな」
　呟くような謝罪が雨音に紛れて消える。

　ああ、泣いているのは、お前か。

　それが誰だか思い出せないまま、新一は再び眠りに落ちていった。

　目覚めた時、新一は自分がまだ悪夢の続きにいる事を知った。寝かせられているのは、二階の寝室だった。首の違和感が消えている。手で探ると、首輪ははずされていた。額に乗せられた濡れタオルを取って、起き上がる。身体中が痛みに軋んだ。普段使わない筋肉を酷使させられたのが原因だろう。何故、そんな事態に陥ったのか思い出し、新一は口を押さえた。
　あの図書館のような部屋で、行われた事が夢だったならばと、意識が現実を受け入れるのを拒否しようとする。しかし、身体の痛みと何より肌のあちこちに残された痕が、あれは夢でないと知らしめる。服はいつの間にか着替えさせられていた。清潔な白いバスローブが身体を包んでいる。合わせ目から覗く、肌に刻まれた陵辱の痕に吐き気がする。
「起きたのか」
　顔を上げると、全ての元凶が部屋に入ってきた。怪盗は相変わらず俳優新庄功の顔を借りていた。この家に来てから、新一の前では一度も白いスーツの片眼鏡姿にはなっていない。
　怪盗はベッドに近づくと、新一に手を伸ばしてきた。反射的に身体がびくりと震えた。
「何もしねえよ。熱を計るだけだ」
　怪盗の手が新一の額に触れてきた。怪盗の手は冷たかった。
「まだ少し熱はあるみたいだな。何か食うか？」
「オレはどれだけ眠っていた？」
　怪盗の質問には答えず、新一は自分の疑問をぶつけた。あんな仕打ちを受けた後で、まともに会話をする気は起きなかった。
「あの後、名探偵は二日間、眠っていたんだ」
　新一は無言でベッドから降りようとした。立ち上がろうとして、よろめいて怪盗の腕に抱きとめられる。
「触るな！」
　反射的に彼の身体を突き飛ばし、反動で新一はまたベッドに座り込んだ。
　怪盗は新一が突き飛ばした手が当たった自分の胸を見下ろし、所在なげな手を握り締めて、諦めに似た吐息をついた。
「どこに行くつもりだよ？」
「帰るに決まってんだろ」
「無理だ。まだ熱があんだぞ。この山道をどうやって帰るつもりだよ」
「ご忠告、ありがとよ。でも、歩いて帰るさ。オレにかまうな。口止めをしたんだ。気が済んだだろ。もう、オレをここに閉じ込めておく理由はない。そうだろう？」
　新一は鼻で笑った。
「心配すんなよ。お望み通り、ここの事は誰にも言わねえでいてやるよ。ついでに、二度と、お前の事件にも関わらないから安心しろ。金輪際、お前と顔を合わせる事はない！」
「何でだ？」
　新一から視線を逸らして、生気を失ったように見える怪盗が胡乱げな呟きを落とした。
「何で、だと？　本気で言っているのか？」
　新一は腕を伸ばして、目の前の怪盗の胸倉を掴むと、自分の目線までその顔を引き摺り下ろした。無理な体勢で力を込めた所為で身体が軋んだが、新一は痛みを無視した。本当は大声を出すのも身体に響いた。だが、怒りは止まらなかった。
「お前は、オレが何に怒っているのか、本当に分からないのか、怪盗キッド！」
　新一の剣幕に気圧されたのか、視線を引き下ろされた怪盗は胸倉を掴まれたまま、床に膝をついた。怪盗が虚ろな乾いた笑い声を立てた。
「ああ、そうだな。自分を汚した相手の顔なんざ見たくもねえよな」
　新一は大きく溜息をついた。やはり、この怪盗は何も分かっていない。
「お前が汚したのは、オレじゃない」
「え？」
「お前は、自分と親父さんと〝怪盗キッド〟を汚したんだ」
　新一は突き放すように、怪盗の胸倉から手を離した。
「お前と対決するのは不謹慎だが、楽しかった。お前に勝つ為に、オレは全身全霊を懸けた。あのひりつくような緊張感、高揚感。他の奴らに感じた事はない。でも、お前がたかだか口止めをするのに、人として最低の行為を選ぶ人間だとは思わなかった。お前はオレじゃなくて、初代だったという親父さんも含めて、怪盗キッドの全てを踏みにじったんだ。薄汚れた泥棒に興味はねえよ。ビッグジュエルだが何だか知らねえが、勝手に盗んで、勝手に返して、警察と遊んでいろ。もうオレは知らねえ。どうでもいい」
　新一の言葉に、膝を付いたままの怪盗は項垂れる。
「ごめん」
　消え入りそうな言葉に、新一はまた一つ溜息をついた。今回の被害者は間違いなく自分であるのに、しかし、目の前で悄然とする怪盗に逆転している気分になる。目の前に大人の姿をした、小さな子供がいる。

（2007.03.18初出　2009.12.06再掲）

14　　　　　　　　16

窓を閉じて下さい

▲