Noon-Star4

Noon Star
4

　あまりにも悪目立ちしてしまったために、三人は本屋を出た。女の子はそれでも目当ての新刊を購入しているあたり、しっかりしている。立ち話も何だったので、三人で喫茶店に入った。
　新一の向かいに座った女の子は中森青子と名乗り、男は黒羽快斗と名乗った。
「あなたは、あの中森警部の娘さんなんですか」
「はい、いつも父がお世話になってます」
「いや、お世話になっているのは僕の方ですよ。改めまして、僕は工藤新一です」
「それにしても、あの工藤君が快斗と知り合いだったなんて、驚いたなぁ」
「え、いや、その」
　新一が視線を向けると、黒羽は巨大なチョコレートパフェを嬉しそうに頬張っていた。新一と目が合うと、黒羽は無邪気にも見える笑顔を浮かべた。あの、怪盗の気障な雰囲気とはほど遠い。
　それに、咄嗟に肩を掴んでしまったが、たとえ相手が怪盗キッド専任の中森警部の娘でなくても、貴女と一緒にいた友人を犯罪者と思って声をかけましたと口にする事は、流石の新一にも躊躇われた。
「いえ、どうも僕の人違いだったようです」
　新一は曖昧に笑って、言葉を濁した。青子が慌てて、音がしそうなほど手を振った。
「あ、違うの、工藤君、気を悪くしないで。快斗が知らないって言ったのには、理由があるの」
「え？」
　青子の言葉を、スプーンを振りながら、黒羽が引き取った。
「そ。悪いんだけど、オレ、ここ二～三年の記憶がなくなっちまったんだ」
「記憶が？　それは、どういう事ですか？」
「詳しくは分からないんだけど、快斗ってば、一年前にマジシャン武者修行だって言って、粋がってヨーロッパ一周をしてたらしいの。でも、その途中で事故に遭って頭に怪我をして、帰ってきた時には、旅行の前後と、最近二、三年の記憶がなくなっていたんだって。青子やおじさん、おばさんの事は覚えていてくれたからいいけど、高校の時の記憶とかほっとんど全部覚えてないんだ。紅子ちゃんや白馬君は、すっごくがっかりしたんだよ。あ、紅子ちゃんと白馬君ていうのは、高校の時の同じクラスだった子達なんだ。だから、工藤君もきっと、その記憶がなくなっちゃった部分の時期に快斗と知り合ったんでしょ？」
「そういう理由なんで、オレ、あんたの事が全然分からないんだ。悪い」
　頬にチョコアイスをくっつけて、黒羽が屈託なく笑っている。悪いなんて欠片も思っていなさそうだ。へらへら笑っている顔に言い様のない不快を覚え、新一は青子に顔を向けた。
「ご家族は何て？　記憶が戻る可能性はあるんですか？」
「お医者さんは、記憶が元に戻るかどうかは五分五分だって言ってたって。おばさんは、あ、おじさん、快斗のお父さんはずっと前に亡くなってるんだけど、おばさんは、快斗が無事じゃないけどちゃんと生きて帰ってきてくれたから、それでいいって笑ってた。たとえ、記憶が戻らなくても、済んだ事だからかまわないって。もう全部終わったんだって。すごいよね、おばさん。青子だったら、そんな事言えるかな」
　どこまで母親が知っていたのかは分からないが、彼女の言葉から判断して、恐らく怪盗キッドの全ての決着はついたのだ。彼の記憶と引き換えにして。
　ならば、全てが終わったのなら、無理に思い出す必要もないのだろう。母親の「生きて帰ってきたから、それでいい」というのは、そういう意味だろう。全て終わったのならば、犯罪者としての記憶など、むしろ無い方が幸せなのかもしれない。
「知り合いに似ていたので、思わず声をかけてしまったのですが、お話を聞いたところ、やはり、どうやら僕の勘違いのようです」
「え、そうなの？」
「はい。デートのお邪魔をしてしまって、すみませんでした」
「やだー、デートだなんて。違うよー。ただ幼馴染の快斗に荷物持ちをしてもらおうと、買い物に付き合ってもらっただけだよ」
「そうだよ、勝手にオレとアホ子をカップルにするなよなぁ」
　異口同音に同じ反応をしている。仲の良い二人だと、新一は微笑ましく思った。
「じゃあ、僕はこれで失礼します。本当に間違えてすみませんでした。ここは僕が支払いますので」
　伝票を持って立ち上がる。新一の背中に、黒羽の声が追いかけてきた。
「なあ、工藤新一って言ったよな、あんた」
「はい、何ですか？」
「本当に、オレの事、知らないのか？」
　振り返ると、あの夜と同じ、真直ぐな瞳が新一を映している。けれど、ここにいる彼は、もう怪盗キッドではないのだ。
「ええ、知りません」
　黒羽快斗という男など、新一は知らない。
　考えてみたら、新一は彼の事は、怪盗キッドである以外に知らないのだ。彼を呼ぶのに他の名前など知らない。彼がキッドであった事を忘れ、新一の事を忘れ、表の世界に帰るのならば、そこに新一との接点はない。
　新一は、にっこりと誰もが好感を持つ完璧な笑顔を閃かせた。
「僕は黒羽快斗という人は知りませんよ」
　新一が知っているのは、怪盗キッドなのだ。

　幼馴染の青子の買物に付き合っての荷物持ちが無事に終了し、快斗は家に帰ってきた。
　すぐに夕飯だというので、母の手伝いをする。食器を並べながら、料理の味見をしている母の背中に質問を投げた。
「なあ、母さんは工藤新一って知ってるか？」
「ええ、勿論知ってるわよ。高校生探偵で有名ですもの。あ、快斗と同い年だったから、もう大学生かしら。その探偵さんがどうかしたの？」
「今日、本屋で会った」
「へえ。サイン会でもしてたの？」
「違うよ。何かオレを誰かと間違えて、声をかけてきたんだ」
「まあ、そうなの」
「母さん、何か知らない？」
　軽快な包丁の音が、僅かの狂いもなく規則正しいリズムを刻んでいる。
「何かって、何？　人違いだったんでしょう？」
「ああ。工藤はそう言っていたんだけど･･･」
　最初に声をかけてきた時に自分を見据えた、強い瞳が忘れられない。あの時、彼は確かに一人称に「オレ」と使っていた。しかし、喫茶店に移動してからは、一貫して「僕」と言っていた。まるで、紗でも引かれたかのようにやんわりと隔てられ、遠い感じがした。そして、別れ際に見せた笑顔。あれは、綺麗な、だけど少しも心のこもっていない笑顔だった。
「快斗は、その工藤さんが気になるの？」
「ああ。何か、ムカつくんだよな」
「まあ」
　母親は面白そうに笑った。
「何だよ？」
「快斗が他の人の事をそんな風に言うなんて、珍しいなって思っただけよ」
「母さん、オレはマジック修行に欧州に行ったんだよな？」
「そうよ」
「それで、旅行中に事故に遭って、頭をぶつけて、一部分だけ記憶がなくなった」
「そう。お父さんの付き人だった寺井さんが、あなたを心配して一緒に行ってくれていたから、助かったわ。色々と便宜を計ってくれたのよ。あなたは昔からそうだったけど、本当に運がよかったわ。怪我だって頭をぶつけただけで、酷い外傷はなかったし、後遺症もちょっと記憶がなくなったぐらいで今のところは済んでるし、本当に良かった」
　『ちょっと』でも記憶がなくなるというのは大事ではないかと思うが、母は少しも気にした様子もなく大した事ではないと笑った。
　食卓に二人分の食事が並べられ、湯気を立てている。食卓につき、二人で同時にいただきますを言い、夕食を食べ始める。
「母さん、オレは何か大事な事を忘れちまったんだろうか」
「どうして、そう思うの？」
「何か、思い出さなきゃいけない事があるような気がしてさ」
「そうねえ。快斗、あなたは高校時代をほとんど全部忘れてしまったわね。高校時代って言うのは、やっぱり特別な時期だものね。お友達との思い出も何もかもなくなってしまった。それはとても淋しい事よね。だから、それが大事な事じゃないのかしら？」
「うん、オレもそう思ったんだけど、高校時代の友達って奴らにこないだ会って、その時思ったんだよね。たとえ、忘れちまっても、まだ付き合ってくれる気があるなら、これからそいつらとはまた友達になろうって。なくなっちまった思い出は取り戻しようがないなら、これからまたそいつらと新しく思い出を作っていけばいいやってね。高校時代に考えたマジックだってさ、一度考えつけたんなら、きっとまた同じタネをやろうって思うと思うんだよね、オレの事だからさ。だから、それもそんなに心配はしていないんだ。でも、それだけじゃない、何か、こう、もっと、絶対に、忘れちゃいけない何かがあった気が･･･」
「大丈夫よ、快斗」
　母の声は確信に満ちていた。
「あなたはお父さんの、盗一さんの子だもの。盗一さんはとても欲張りだったわ。大事なものがいくつもあって、でも、それを全部ちゃんと大事にしていた。たとえ、思い出も記憶も失くしても、ちゃんと大事なものはあなたの中に残っている筈よ。だから、何も焦る事はないし、きっと、心配する事もないわ」
　何もかも分かっているかのように、味噌汁の湯気の向こうで母はにっこりと微笑んだ。

（2008.06.21初出　2011.10.09再掲）

3　　　　　　　　　　　5

窓を閉じて下さい

▲