Noon-Star8

Noon Star
8

　葉が滴るような緑に染まる季節、天気のよい休日。
「じゃあ、おばさん、快斗借りていきマース。ほら、快斗、早く早く」
「分かってるよ。そんなに急かすなよ。こっちは起きたばっかなんだからよ」
「何よ、前から約束してたでしょ。寝坊するなんてサイテー」
「しょうがねえだろ。ちょっとばっかり夢見が悪かったんだよ」
「はいはい、いいから行ってらっしゃい。二人とも気をつけてね」
　黒羽夫人は庭の手入れをしながら、微笑ましい二人を見送った。幼馴染みの青子の元気な明るさは、外ではそんな姿は見せないだろうが、家では何かを考え込みがちになっている息子のよい気分転換になるだろう。鼻歌交じりに庭の手入れを続ける。
　息子達の姿が見えなくなる頃、黒羽邸の前に一人の人間が姿を現した。
「こんにちは」
「あら、こんにちは」
　手を休めて声をかけてきた相手を見て、黒羽夫人はにっこりと微笑んだ。
「そろそろ来る頃だと思っていたわ」
　門扉を開けて、訪問者を迎え入れる。
「どうぞ、入ってちょうだい」
「はい。失礼します」
　礼儀正しく頭を下げて、東の名探偵と評される工藤新一は、黒羽邸に足を踏み入れた。

　新一は客間に通され、目の前にコーヒーが置かれた。黒羽夫人が、向かいのソファに座る。
「快斗は今出かけているの。それとも、知っているからここまで来たのかしら？」
「黒羽君のお母様に少し話をお聞きしたくて」
　真実をつく問いかけには答えず、新一は黒羽夫人に訪問理由を伝えた。
「快斗の記憶喪失の事ね」
「はい」
　新一は黒羽夫人を見た。夫人は穏やかな海のような笑みを浮かべている。
「立ち入った事をお聞きしますが、医師の診断はどのようなものですか？」
「外傷性の記憶障害だそうよ。頭を強打した事が原因ですって。記憶が戻るかどうかは五分五分。戻るとしても、それがいつ頃になるかも分からない。明日かもしれないし、三十年先かもしれない。お医者様には、そう言われたわ」
「頭を打った事以外に、記憶喪失になるような原因はなかったのですか？」
「たとえば、何かしら？」
「精神的なストレス。過度の恐怖や忌避すべき事態を目の当たりにして、精神の均衡を保つ為にストレスとなる記憶からの逃避は考えられませんか？」
「快斗が記憶を失った時、私は日本にいました。だから、残念だけど、ヨーロッパで快斗が事故に遭った時の事は詳しくは分からないの。その時、一緒にいた人から聞いた話によると、快斗が遭った事故で特に亡くなられた方もなく、快斗が忘れてしまいたくなるような出来事も特になかったと聞いているわ」
「そうですか。では、単刀直入にお聞きします。貴女は黒羽君の記憶喪失をどう思っていますか？」
「早く治るといいと思っているわ」
「本当に？」
「ええ。あの子はなくした記憶を思い出したがっているもの。親としては、あの子が望むようになればいいと思うわ」
「彼がなくしたものが、どんな記憶でも？」
　新一の遠回しの質問に、黒羽夫人はますます笑みを深くした。
「貴方はお父様と同じで、とても聡明ね」
「父をご存じですか？」
「ええ、優作さんと、有希子さんとも何度かお会いした事があるわ。覚えていないでしょうけれど、優作さんと有希子さんと一緒に、黒羽のショーを見に来てくれた小さな貴方とも会った事があるのよ。うふふ、本当に大きくなったわねえ」
　黒羽夫人は昔を思い出したのか、眼を細めて小さく笑った。新一は居心地悪く身じろいだ。
「工藤君」
「はい」
「貴方は本当に探偵さんなのね。貴方は探偵として、真実が持つ残酷さをよく知っている。真実は正しい。でも、真実を全て知る事が正しい事とは限らない。貴方が言いたいのは、そういう事よね？」
「はい」
　黒羽夫人の視線が流れた。新一が追うと、彼女の視線の先に、棚に置かれた写真立てが目に入った。今は亡き黒羽盗一氏と夫人の若い頃の写真だった。二人は並んで幸せそうに笑っている。では、夫人の腕に抱かれている赤ん坊が黒羽快斗なのだろう。
「小さい頃に亡くした所為もあるんでしょうけど、快斗は本当に父親が大好きで、誇りに思っているわ。ちょっとファザコン気味かもしれないぐらい。だから、あの子にとって、黒羽の、父親に関する事は何でも大切な宝物なのよ。それがたとえ怒られた記憶でも、悲しくなるような思い出でも。父親に関わる事を忘れてしまいたいと望む事は、あの子にとってあり得ないのよ」
　黒羽夫人の瞳が笑んだまま、新一を映した。
「快斗は高校二年の時に、自分で進むべき道を選んだわ。誰に言われたわけでもなく、自分で決めた。多分、あの子はあの時に、もう私の手から離れてしまったの」
　黒羽快斗の事は、彼の存在を知ってからある程度は調べた。彼の若くして亡くなった父親、世界的マジシャンの黒羽盗一氏も事も調べた。様々な符号から、怪盗キッドが父子二代に渡る幻影であると判断した。
「快斗はヨーロッパに渡る前に、万が一に備えて色々なものに鍵をかけていったわ。何があってもいいように、身の回りをきちんと片付けて。勿論、あの子はちゃんと帰ってくるつもりだったけど、でも、念には念を入れた準備をしていった。そういうところは、マジシャンの性質なのかしら、それとも父親に似たのかしら。黒羽にそっくりだったわ」
　夫人が盗一氏を語る表情は、とても穏やかで優しい。今でも深い愛情がある事が伝わってくる。
「黒羽は自分に何があっても、何もなくても、どちらでも困らないように色々準備していたわ。快斗も同じ。どんな結果が出ても、困らないように準備していったわ。流石に、こんな風に記憶喪失になるっていうのは予想外だったでしょうけどね。でも、だから、あの子の部屋は、今はとても綺麗に片付いているの。工藤君、貴方や青子ちゃんのお父さんに見せても、ちっとも恥ずかしくないくらいきちんとしてあるわ」
　怪盗キッドに関係するものは、彼の周りにはないと夫人は言外に教えてくれる。そういう意味では、この家からは誰も怪盗キッドの秘密に辿り着けないのだろう。それは、記憶を失った黒羽自身も含めて。
「でもね、あの子、バカなの」
「は？」
　夫人の唐突な言葉に、新一は間の抜けた声を上げてしまった。
「快斗は頭はいいんだけど、バカなの。そんな所も黒羽にそっくり。論理的に考えれば、誰もしないようなバカな事を平気でしちゃうような所があるのよ。きっと、普通に考えれば間違っている事も、あの子や黒羽にとっては違うんだわ」
　確かに、そうでなければ、あんな派手な白い怪盗の姿で、衆目を集めて盗みなど行わないだろう。どんな目的かは分からないが、他にやりようはいくらでもあるに違いない。
　夫人は意味ありげな笑みを深くした。
「それでも、一番大切な事は間違えなかったわ。二人とも、しっかりしてるのよ。ねえ、工藤君、快斗は、記憶がなくてもあっても、きっと変わらないわ。あの子はどうあろうが、自分の選んだ道を進む。だから、貴方も、あの子の事は気にしなくていいわよ」
「え？」
「あの子の為に合理的に考えなくていいわよ。あの子の為とか、そういうのじゃなくて、貴方自身が選んで答えを出してくれればいいわ」
「･･････」
「工藤君、快斗の事を心配してくれて、ありがとう。貴方のようなお友達がいてくれて、本当に嬉しいわ。黒羽も生きていれば、きっと同じ事を言うと思うわ」
　かつて世界中を騒がせた怪盗キッドの妻であった女性は、揺るぎない笑顔を浮かべて見せ、そして、最後に新一に問いかけた。
「工藤君、貴方は記憶を失った快斗に、何を望むのかしら？」

　明るい満月が夜空を彩っていた。
　新一は自室の窓から、最後にキッドと会った夜に似た月を見上げて、溜息をついた。昼間の黒羽夫人の問いかけが頭から離れない。
　自分は、黒羽快斗の記憶が戻る事を望んでいるのだろうか？
　正直なところ、怪盗キッドとの約束を忘れられたのは腹立たしい。彼が新一に何を言いたかったのかも気になる。あんな真似をされたお返しもしていない。
　そこまで考えて、怪盗に引き寄せられた時を思い出し、部屋で一人顔を赤くした。そんな滑稽な自分自身が更に腹立たしい。
　ちらりと壁に掛かっているカレンダーを見る。もうすぐ紙を一枚めくって、梅雨の季節になる。誰も来なかった約束の日がまた巡ってくる。
　怪盗が自ら望んだ一年前の約束は、果たされずに忘れ去られた。しかし、ならば、新一も約束など忘れてしまえば、問題ないのではないか。黒羽が怪盗キッドとしての全てを終わらせたのなら、それに関する記憶を無理に取り戻す必要もないだろう。日常生活を送っていく上で支障もなければ、それは何の必要もない記憶に思える。父親の記憶が黒羽にとってどれだけ大切なのかは、新一には分からないけれど。
　それでも、記憶喪失は黒羽快斗の問題だ。工藤新一には関係ない。白い怪盗も、彼を追いかけた子供も、どちらも今はもう過去の遺物だ。黒羽のこれからの人生には、全く必要ないだろう。彼が失われた記憶を取り戻さなければならない、積極的な理由は何一つ見あたらない。これからは犯罪や裏の世界とは無縁の、普通の人生を送ればいい。きっと、今は亡き彼の父親も、そう望むのではないだろうか。だから。

「工藤新一は、黒羽快斗の記憶が戻る事は望まない」

　自身に言い聞かせるように、輝く月に宣言するように呟いた。そして、新一は静かにカーテンを引いて、視界から鮮やかな満月を消し去った。

（2008.06.21初出　2011.10.16再掲）

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