respect16

Respct！　16

　新一が目覚めると、見覚えのない部屋にいた。視線を巡らし、現在の状況を確認する。新一が寝ているのはセミダブルのベッドで、部屋は八畳ほどの広さで窓は一つだけだった。ベッドの他にはサイドテーブルと、その上に電気スタンドが一つ。他には何もなかった。窓はカーテンが引かれ、合わせ目から日の光が零れている。夜は明けているようだ。
　頭がうまく働かない。昨日の記憶を順番に辿る。
　蘭、手紙、バイク、公園、黒羽、スカイツリー。
「！　藤岡っ」
　昨日何があったのか思い出し、新一は飛び起きた。
　新一の記憶はスカイツリーから落ちて、キッドに助けられたところで途切れている。自分の身体を確認すると、怪我は全て手当てされていた。傷口に白い包帯が巻かれている。
　多分、いや間違いなく、キッドの仕業だろう。
　その予想はすぐに肯定された。
　部屋のドアが開いて、キッドが入ってきた。
「目が覚めたんだ」
　キッドはいつもの白い衣装ではなかった。片眼鏡もなく、花火大会で黒羽と名乗った時のような、ラフな格好をしている。
「怪我の具合はどうだ？」
「ああ、大丈夫だ。ここは？」
　キッドがカーテンを開けた。部屋の中が明るくなった。日は高く、もう昼過ぎのようだった。
「オレの隠れ家の一つ。名探偵、地上に降りた途端、気を失ったんだぜ？　覚えてるか？」
「いや、全然」
「だろうな。まあ、気絶っていうより、寝ちまったってのが正しいのかもしれないしな。それで、とりあえず手近なこの部屋に運んで手当をしたってわけ」
「そうか。すまなかったな。ありがとう」
　礼を言うと、キッドは微妙な表情をした。
「何だよ？」
「いや、名探偵にお礼を言われるとは思っていなかったからさ」
「悪かったな」
　ふてくされて答えると、キッドは何が楽しいのか嬉しそうな笑顔を見せた。
　新一が目暮に電話を入れると、スカイツリーの工事現場で、鉄棒に潰されていた藤岡は無事に確保された。特に抵抗はなかったという。藤岡に骨折はなかったが、打撲があり、病院で精密検査と診察後、問題なければ逮捕、拘留される。
　新一への事情聴取は日を改めて、警視庁へ赴く事になった。昨年と同じくキッドの事を含め、色々な言い訳を考えておく必要がありそうだった。
「さて」
　必要な連絡を終えて、新一はベッドの横で背もたれを抱えるように座っているキッドを見た。
「おい、キッド」
「この姿の時は黒羽って呼んでくれよ」
　その言葉が意味する所は、今は敢えて考えないようにした。
「んじゃあ、黒羽。お前、オレの事を盗聴していただろう」
　問い詰めると、黒羽は気障な仕草で肩を竦めて、あっさり認めた。
「ばれてたんだ」
「いつからだ？」
「工藤に盗聴器をつけたのは、スカイツリーに送った時だよ」
　別れ際に軽く背中を叩いたその時に、背中の襟元に盗聴器兼発信機をつけておいた。
「でも、その前から視線を感じたりしたぞ」
「それは、こいつらだよ」
　黒羽が左腕を伸ばして指を鳴らすと、白い鳩が数羽煙と紙吹雪と共に現れ、黒羽の左腕にとまった。どんな時でも、小技を決して忘れないところは、エンターティナーとしての性分か。
「鳩の足に小型カメラと集音マイクを付けて、工藤の様子を見ていたんだ」
「何で、オレを監視してたんだ？」
「監視じゃなくて、見守り。藤岡が脱走したのは、知っていたから、それとなく情報を集めていたんだ。そしたら、藤岡がまた傭兵を雇ったらしいとか裏世界の物騒な噂が聞こえてきてさ。これは、名探偵に復讐する気なのかもって思ったら、気になってさ」
「で、ストーキングしていたわけか」
「だから、見守りだってば。勿論、名探偵が強いのは知ってる。オレの心配なんて余計なお世話だってのも、分かっていたけどさ。でも、心配だったんだ」
　真直ぐに見つめてくる黒羽の視線の圧力に耐え切れず、新一は視線を逸らした。
「盗聴器は今どこにつけてあるんだ？」
「スカイツリーで付けた奴は回収したから、もう工藤には付いてないよ」
「他には？」
「ない。鳩も回収済み。な？」
　鳩に向けて黒羽が呼びかけると、鳩達が一斉にくるっくーと応じた。
「そうか。ならいい。もう二度とするなよ」
「分かってるよ」
「…まあ、でも、今回は色々助かった。その、サンキュな」
　黒羽の目の前で、新一はやっぱりふてくされたように、でもちょっと照れくさそうに改めて礼を言った。そんな表情一つに波立つ感情が黒羽にある事を、新一は知らない。
「そういや、キッドの探し物は見つかったのか？」
　照れ隠しに話題を変える。
「探し物？」
「お前、いつも言っていただろ。目当ての宝石がどうとかって」
「ああ。あれか。んー、まあ、見つかったような、見つからなかったような」
「ふーん？　でも、もうキッドが探す必要はなくなったんだな」
「そゆこと」
　黒羽がどこか痛みをこらえるような笑顔を見せた。
　怪盗キッドが姿を消した時期と前後して、ヨーロッパを中心とした、とある大手製薬会社の本社工場が爆発事故を起こした。その会社の会長は、犯罪組織と繋がりがあるなど色々と黒い噂が絶えなかった。事故後、会長は引退し、大規模な人事の刷新があったという。キッドと関係があるかは分からないが、ふと、そんなニュースがあったのを新一は思い出した。
「じゃあ、怪盗キッドは引退か」
「ああ。怪盗キッドの役目は終わった。今回みたいなよほどの事がない限り、もう現れる事はないさ。馴染みの中森警部には、ちゃんと活動休止のお知らせは出しておいたし」
「部活動みたいだな」
　黒羽の言い回しに、新一は笑った。
「まあね。中森警部は信じてないみたいだけど」
「そりゃあ、警部は信じてない、じゃなくて、信じたくない、だろうな。長年追っかけていた奴が、決着もつけずに居なくなるなんてさ」
「工藤は？」
「へ？」
「工藤はキッドが居なくなって、淋しい？」
「泥棒に興味はねえよ」
「つれないなぁ」
「でも、あの暗号やトリックがもうないっていうのは、ちょっとつまらないかもな」
「さすが、工藤らしいな」
　沈黙が落ちる。部屋の壁にかかっている時計の音が、必要以上に大きく聞こえる。これ以上、続ける話題もない。
「じゃあ、世話になったな。オレ帰るよ」
　新一はベッドから降りて、立ち上がった。上着を探して、壁のハンガーにかかっているのを見つける。
　上着を取ろうとして、よろめいた。出血による貧血に加え、立ち上がった為に血が下がった所為だろう。
「おっと」
　よろめいた新一を、立ち上がった黒羽の腕がしっかりと受け止めた。
「悪い」
　慌てて身体を起こしたが、黒羽は新一を離そうとしなかった。
「キッド？」
「この姿の時は、黒羽だよ」
　ぐいと腕が強く回され、背中から抱き締められるような格好になる。
「ちょ、おい、キッド!?　ふざけるなよ」
　黒羽の腕の中でもがくが、元怪盗の腕はびくともしない。
「ふざけてない」
「っ」
　耳元に低音を落とし込まれて、背筋にぞくりとしたものが走る。
「良かった。あったかい」
　黒羽が背後から、新一の肩口に顔を埋めてくる。抱き締めてくる腕の強さが、黒羽の怯えを伝えてきて胸が締め付けられる。
「飛行船の時もそうだったけど、スカイツリーから工藤が落ちた時、心臓が止まるかと思った」
　確かに、キッドが居なければ、あの時も今回も新一は死んでいただろう。その時を思い出しているのか、黒羽の腕が震えている。死という喪失の恐怖に、黒羽はまるで子供のように怯えていた。
「怖かった」
　腕をふりほどけない。
「工藤がいなくなると思うと、どうしようもなく怖かった」
　ますます抱き締めてくる腕は強くなる。その強さよりも、黒羽から向けられる想いの深さに苦しくなる。
「なあ、名探偵」
「な、何だよ？」
　もともと耳は弱い。耳元にかかる黒羽の吐息の感触に、必死に耐える。
　黒羽の手に促されて、顔を傾け、至近距離で視線を絡める。片眼鏡はないけれど、その双眸は獲物を見つめる怪盗のそれだ。
　盗まれる。
　何がとは、自分でも分からなかった。ただ直感でそう思った。
「オレが一番欲しかったお宝を、お前がオレにくれたら」
　黒羽の声が甘く囁いた。　
「怪盗キッドをくれてやるよ」
「え？」
　言われた言葉の意味が分からず、咀嚼する。沈黙の間、黒羽は新一の言葉を待っている。だから、新一は答えなければならない。

「いや、別にいらないし」

　新一はあっさり一蹴した。黒羽が苦笑して、腕の力を緩めた。
「ひでえな。結構言うのに勇気言ったんだぜ。あっさり却下かよ」
「引退した泥棒に興味はねえよ」
「そっか」
「でも、その、」
「え？」
「…怪盗キッドじゃなくて、黒羽快斗なら、もらってやってもいい」
　視線を逸らして、語尾がもごもごと新一の口の中に消える。
「わっ」
　再び黒羽の腕に、きつく抱き締められた。
「好きだ」
「っ」
「工藤、愛している」
　嫌悪はなかった。向けられる真っ直ぐな好意は、認めたくはなかったが、嫌ではなかった。
「工藤に触れたい」
　もう触れているじゃないか。とか、ごまかす言葉も出てこない。しかし、展開が早すぎてついていけない。主導権を取り戻そうと、新一は無駄な抵抗を試みる。
「ま、待て、黒羽。オレは男で、その、」
「知ってるよ。でも、オレは、工藤に触れたい」
「あ」
　耳朶を甘く咬まれて、思わず声をあげた。ふわりと身体が浮いたと思った次の瞬間、またベッドに逆戻りをしていた。
「ごめん。工藤が生きているのを、もっともっと実感したい」
　横たえられた新一は逃げられないように、黒羽の四肢の檻に閉じ込められる。
「工藤が欲しい」
「黒、ん」
　柔らかく唇が重ねられた。黒羽は啄むようなキスを繰り返し、強ばっている新一を根気よく宥めている。どうしていいか分からずに、おずおずと口を開けると、喜んで黒羽の舌が入ってきた。
「んんっ」
　黒羽のキスに翻弄されながら、思う。本当に嫌なら、黒羽を拒絶しようと思えば出来る。押し退けられない訳ではない。そこまで無理強いの力ではない。
　なのに、黒羽に流されているのは、多分生死の境で命のやりとりをしたばかりだからに違いない。これが、映画などでよく見る吊り橋効果なんだと、新一は自分に対して言い訳する。
「工藤、愛している」
　全ての戸惑いも言い訳も霧散しそうなほど、囁く黒羽の声が心地よくて、流される。黒羽の背中に、戸惑いながら腕を回した。

（2010.8.22初出　2024.11.28再掲）

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