sakura6

桜　6

　扉がゆっくりと開き、黒羽が顔を出した。
　勿論、その手に凶器がある筈もない。新一を認めると、黒羽はいつもの屈託のない笑顔を見せた。
「なんだ、いたのか。いるなら返事ぐらいしてくれよな」
「あ、ああ、悪い。ちょっとぼーっとしていた」
　笑みを向けてくる黒羽に、新一がぎこちない笑みを返す。笑顔を作りたいのに、恐怖が顔の筋肉を強ばらせる。
「じゃあ、オレは部屋に戻るな、黒羽」
　できるだけ平静を装い、適当に誤魔化しながら、新一は部屋を出て行こうとした。黒羽と二人きりでいるのが、怖い。何より、黒羽に対してそう感じるのが辛かった。
　しかし、黒羽は静かに立ち位置を変えて、新一とドアの間に立ち塞がった。後ろ手にドアを閉め、鍵をかける音が聞こえる。
「黒羽、退けよ。出られないだろ」
「工藤、少し話がしたいんだけど」
　いつか言われると思っていた。
「悪い、今忙しいんだ」
「ぼーっとしていたんだろ？」
　低く静かな黒羽の声には、有無を言わさない力があった。新一はそれ以上の口実を見つけられず、口を閉ざした。視線を足下に落とす。静かな感情のない声が耳朶を叩く。
「工藤、何でオレの目を見ないんだ？」
「別にそんなつもりはないけど」
　ごまかしたが、それは事実だった。新一はあの夢を見た日から、まともに黒羽の顔を見ていなかった。人の視線に敏感なマジシャンが気づかないわけもない。
　黒羽は腕を組んで、ドアに寄りかかった。何気ない動作一つでも、黒羽の動きに無駄はない。新一は素早く視線を巡らし逃げ道を探すが、黒羽の背後にあるドア以外に書斎から出る道はなかった。
「なあ、工藤、オレ何かしたか？　最近、オレを避けているだろ」
　新一の挙動不審に対して、それが黒羽の導き出した答えなのだろう。確かに、そう思われても仕方ない行動を新一は取っていた。新一は空とぼける。
「まさか。気の」
「気の所為、じゃない。目の前の人間が、オレを見ているか見ていないか、避けているかそうでないか、オレが分からないわけないだろ」
　黒羽はマジシャンだ。人の視線や感情に敏い。ましてや、一見の客ではなく同居している相手だ。どんなに新一が平静を装っても、黒羽に対して隠し通せる筈もない。
「なんで、オレを避けるんだ？　考えたんだけど、全然思い当たらないんだ。オレが何かしたんなら、そう言ってくれないか？　何も言わずに避けるなんて、工藤新一らしくねえよ」

　お前はオレを殺したんだ

　喉元まで出かかった言葉を、新一は飲み込んだ。口に出せば、悪夢と現実が混じり合ってしまうような気がした。黒羽は新一を決して傷つけない。新一はそれを知っている。それだけは絶対に変わらない真実だ。
　けれど、殺される夢を見ているのも、また事実だった。
　夢だからいいのか。夢だから悪いのか。
　事実を告げても告げなくても、黒羽を傷つける事になる。避ける事で、既に傷ついている黒羽の顔を見ていられなくて背けた横顔に、黒羽の溜息が聞こえた。苛立ちが混じっている。
「なあ、工藤」
　バシンと強い音がした。自分に伸ばされた黒羽の手を、視界の隅に捉えた瞬間、反射的に新一は強い力で払ってしまった。そんな事はしたくなかったのに、身体が勝手に反応した。一週間前の、あの夢を見始めた夜と同じだ。
「あ、悪い、黒羽」
　慌てて顔を上げて、そして、息を飲んだ。黒羽の傷ついた瞳に昏い光が宿っていた。背筋に冷たいものが走る。咄嗟に身を引いたが、間に合わなかった。振り払う間もなく腕を掴まれ、引き寄せられた。
「待て、黒羽、離せっ！」
　新一の声を無視して、黒羽の腕が新一の身体を抱き竦める。腰と背中に回された腕が強い力で新一を締め付ける。
　ほぼ同じ体格だが、身長は僅かに黒羽の方が高い。怪盗として高いパフォーマンスを誇る肉体は、服の下にしっかりとした筋肉をつけている。新一の力では黒羽の腕を振りほどけなかった。
　黒羽は肩口に顔を埋めるように、新一を抱き締めていた。
「く･･･ろ、ば･･･」
　嫌悪はなかった。夢を見始めてから感じている恐怖もなかった。抱き締められるとは思っていなくて、ただ驚いた。黒羽の拘束から逃れられない。
「好きだ、工藤」
　言葉以上に、抱き締めてくる腕に想いが込められている。
　今までも何度も聞かされてきた言葉だ。その度に、新一は「オレも好きだよ」と友情にすり替えて、軽く返してきた。冗談のように流して、それ以上の追求がなかったから、それが正しいと信じていた。
　けれど、今はそんな答えではいけない気がした。言うべき言葉を見つけられない。
「っ」
　返事に迷っていると、首筋に歯を立てられた。その小さな痛みに身体が反応して、我に返る。
「ちょ、黒羽、離せ！」
　黒羽の身体を引き離そうと新一が必死に腕を突っ張るが、体力差腕力差を埋める事ができず、新一は黒羽の腕の中から逃げられない。
「工藤･･･」
　黒羽の声に熱がこもる。見つめてくる視線を感じて、見ないように目を逸らした。しかし、黒羽らしからぬ強引さで顎を掴まれ、そして、唇に柔らかいものが触れた。
　黒羽に口づけられていた。

（2009.03.15初出　2017.08.16再掲）

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