sakura7

桜　7

「んんっ」
　強引な口づけによろめいた足が、上手く床を捉えられずに更にバランスを崩した。
「うわっ」
　派手な音を立てて、書斎の床に倒れ込んだ。キスからは解放されたが、黒羽の身体は床に倒れた新一の身体に覆い被さるような体勢になっていた。新一は肘をついて身体を起こし、目の前の身体を押しのけようとする。
「退けよ、黒羽。いい加減にしないと、本気で怒るぞ」
　睨みつけたが、しかし、黒羽は答えない。
「おい」
　無言のまま黒羽に両手首を掴まれ、床に押しつけられた。蹴り上げようにも既に足にも黒羽の体重がかかり、動かせない。
「く、黒羽」
　思い詰めた黒羽の表情が、どれだけ新一が彼を傷つけてきたか物語っている。彼の想いに答えず曖昧にして、居心地のいい関係に甘えていた。それでいて、今は悪夢の所為で不本意とはいえ、黒羽を避けている。
「離せ、黒羽！」
　逡巡しながら、しかし、この体勢を肯定する事はできない。覆い被さっている黒羽を押しのけようとするが、黒羽の身体はびくともしなかった。
「！」
　両手を一つにまとめて押さえられ、空いた手で何も言わずに素肌に触れてきた黒羽の指に、息を飲む。いつの間にか、マジシャンの早業で新一のシャツのボタンは全て外され、前が開かれていた。黒羽のしなやかな長い指が素肌を辿る。
「黒羽、やめろ！」
　制止と抗議を込めて叫ぶが、のしかかる黒羽には届かない。逆に腕を掴む手に更に力が込められ、強く床に押し付けられた。
「痛っ」
　腕は床に縫い付けられた。脚は既に黒羽の体重で押さえ込まれている。四肢の自由を奪われ、はだけられた胸元を隠す事も出来ない。
　見上げた黒羽の顔は逆光に陰っている。
「工藤」
　影の中で苦しそうに歪めた顔が降りてくる。いつも飄々と明るい黒羽とは、似ても似つかない。
「黒…羽…っ」
　首筋に唇が触れて、歯を立てられた。新一の全てを押さえつけたまま、唇が新一の形を確かめるように肌を辿る。
　首という急所を唇が彷徨うその仕草は、まるで獣が獲物を吟味している姿を彷彿とさせる。
　夢の記憶が蘇る。
　血だまりと雨の中に倒れた身体を、野の獣が貪り喰らう。夜直前の薄闇の中、皮膚を食い破り、温度差に湯気を立てるまだ温かい内臓を獣達が先を争い引きずり出して、喰い散らかす。
「う、わあああーっ！」
　絶叫していた。
　夢と現実に混乱して、錯乱した。
　気づくと、黒羽の身体は離れていた。多分、新一の叫びに驚いて、いや、彼自身も我に返ったのだろう。新一は起き上がりシャツの前を合わせて、床に座り込んでいる放心したような黒羽に背中を向けていた。
　思考が混乱する。新一はくらくらする頭に手をやった。この場所は米花町の自分の家で、父親の書斎で、そして、自分は生きている。身体に刺された傷も痛みもない事を確認して、少し安堵する。
「･･･工藤･･･」
　おずおずとかけられた黒羽の声に、身体がびくりと怯えた。新一の過剰な反応は、夢との混乱の所為だが、黒羽が何をしようとしていた分からない新一ではない。その事に関して、答えも考えもまとまらない。
「その、ごめん」
　黒羽の言葉が胸に痛かった。
　新一に「好きだ」とちゃんと言い続けてきた黒羽は、それでもいつでも紳士的だった。それが、どれだけの努力と忍耐の上に成り立っていたか、自分がどれだけ彼の好意に甘え、踏みにじっていたか思い知る。
　この一週間、理由も言わずに彼を避け続けた結果、彼を衝動的な行動に出る程までに追い詰めてしまった。黒羽の行動には驚いたが、不思議と怒りは湧かなかった。むしろ、理由も言わず、まともに彼を見る事すらできずに、そこまで彼を追い詰めてしまった事に、後ろめたさを感じる。きっと、新一があげた叫びの意味も誤解している。叫びは黒羽に向けたものではないが、しかし、どう説明すればいいのか分からない。
　返事の出来ない新一の沈黙をどう受け取ったのか、黒羽も口を閉ざし、重苦しい空気が部屋を包んだ。
「もう、こんな事しないから」
　立ち上がる気配に振り向くと、黒羽が書斎を出ようとしていた。
「待てよ、黒羽」
　向けられた黒羽の背中があまりにも傷ついて小さく見えて、新一は何を言っていいか分からないまま、立ち上がっていた。
「え･･･？」
　黒羽に手を伸ばそうとした新一の視界に、あり得ないものが映った。
　桜の花びらが一枚上から落ちてきた。上にあるのはただの天井で、窓もドアも閉まっている。外から花びらが風で吹き込んでくる余地はない。
　けれど、桜の花びらがひらひらと舞い落ちてくる。それは一枚だけでなく、後から後から続いてくる。
　まるで降るように、桜の花びらが舞い落ちてくる。父優作の書斎に黒羽と二人で居た筈だが、もうそこには黒羽の姿もなく、場所も書斎ですらなかった。
　新一の視界を占めるのは、あの山の桜並木。一本だけ花をつけない大木の下に、黒い帽子を被った老人が一人立っていた。

「教えて下さい、人の子よ。人は何故、人を殺すのですか？」

　老人の質問と同時に、新一の視界全てが桜の花びらに覆い尽くされた。

（2009.03.15初出　2017.09.16再掲）

6　　　　　　　　　　　　　　　　　8

窓を閉じて下さい

▲