夏の思い出8

Summer　Memorｙ　8

　初めてのキスと状況はまるで違うが、それでもキスは柔らかくて甘かった。
　ぴくりとキッドの瞼が動いた。
「キッド！」
「ん？　あれ？　めーたんてー？」
「マジかよ」
　思わず呟いたが、悠長にしている暇はない。
「キッド、逃げるぞ！」
「へ？」
「お客様ぁ」
　ドアの大半を破壊し、メイドが残骸を乗り越えて部屋に入ってこようとしている。斧を片手に。
「え？　何？　何なんだ？」
　状況を把握できずに、キッドがメイドと新一と部屋を忙しなく見比べる。
「いいから、説明は後だ。ていうか、オレにもよく分からねえ。とにかく今は逃げるんだ」
　キッドの身体を引っ張り、立たせようとした。が、うまく足に力が入らないらしく、なかなか立てない。
　メイドがようやくドアを乗り越えて、斧を振りかざして、走ってくる。真っ直ぐに新一に向かってくる。彼女にとっての招かねざる客は新一だけなのだ。キッドは眼中にない。
「お客様、お待たせしましたぁ」
　キッドを突き飛ばし、自分も横に飛んで、新一はメイドの身体ごと飛び込むように振り下ろされた斧を避けた。勢いのついた斧は、床を砕いてめり込んだ。斧の柄を持ったまま、ぐるりとメイドの首が真後ろに回り、避けた新一を見た。
「本当に困ります、お客様。おとなしくしていて下さいませ」
「冗談」
　メイドは斧を持ち上げ、改めて持ち直し、首を前に戻した。再びにこやかに笑いながら、新一に向かってくる。迷いも躊躇いもない、容赦のない一撃を避けようとして、絨毯に足を取られ、新一はバランスを崩した。
　避けられない。
　咄嗟に腕を上げて頭を庇うが、斧の質量からいって、腕の骨ごと叩き潰されるだろう。まずいと思った瞬間、新一を叩いたのは、斧ではなく、バラの花束だった。勿論、バラはマジック用の棘のない紅いバラだ。真っ赤な花びらがはらはらと散っていく。
「？」
　何が起こったのか分からずに、メイドが自分の手の中の美しい凶器を見つめて、動きを止めた。
「お嬢さん、そんな物騒な物を振り回すものではありませんよ」
　いつの間にすり替えたのか、ようやく立ち上がったキッドの手が杖代わりにしているのは、メイドが持っていた斧だった。
「そちらのお客様も困ります。返して下さいませ」
「分かりました。では、こちらへ」
　メイドがキッドに近づいて手を差し出した。キッドは、斧を恭しく捧げるように持ち直し、メイドに渡そうとした。しかし、メイドの手に触れる寸前に、斧は今までキッドが寝ていたベッドのシーツに早変わりした。
「え？」
　シーツは、まるで網のように広がり、メイドを一瞬にして包んでしまった。
「レディにこういう事をするのは、非常に不本意で心苦しいのですが」
　言いながら、キッドは何処かから取り出したロープで、メイドの身体を鮮やかな手並みでシーツの上から縛り上げる。
「貴女を自由にしておくと、私の名探偵が危険なようなので」
「お客様！　お客様！」
　シーツで身体をぐるぐる巻きにされ、呼吸できるように頭だけ出した蓑虫状態のメイドが床に転がった。
「うしっ」
　キッドが自分の仕事の出来栄えに、満足げに手をはたいた。
「それで、何がどうなっているんだ、名探偵」
「それを聞きたいのは、オレの方だよ。とにかくよく分からないけど、この屋敷は一刻も早く出た方がいい。歩けるか？」
「それが、ちょっと厳しい。身体に力が入らないんだ。悪いけど、肩貸してくれ」
　捕まった時に何か薬でも盛られたのか、身体の自由が利かないようだった。新一はキッドに肩を貸して、部屋から出るべく歩き出した。

（2008.08.15初出　2019.11.28再掲）

7　　　　　　　　　　　　　　9

窓を閉じて下さい

▲